兎×虎。初めてのバレンタインのお話。ヒーローショウで無料配布しました。


あなたと過ごすバレンタイン






「女の子って色々大変だよなぁ」
 ヒーロー事業部の入るフロアの片隅、休憩スペースのソファに腰を下ろして虎徹はしみじみと呟いた。カップ入りのコーヒーに口を付け、あちちと慌てて唇を離す。
 傍らのテーブルに腰を預ける姿勢でそんな一連の仕草を見るともなしに眺めていたバーナビーは、カフェオレ入りのカップで掌を温めながら首を傾げた。ことりと傾げた頬と白い首筋に、蜂蜜色の柔らかな髪が揺れる。
「どうしました?楓ちゃんが何か?」
 その問いに、ちろりと上目遣いで相棒の顔を見やり、虎徹はよくぞ聞いてくれたと言わんばかり、カップを持った手の人差し指を立てて口を開いた。
「うっちの楓からさぁ、昨日プレゼントが届いたわけよ!パパにっつってさぁ。なな、わかる、バニちゃん?何だと思う?」
「さあ……昨日ですか?何だろうな」
「わっかんねーかな〜、この日付見て!」
「今日は二月十四日……バレンタインデー、ですが」
「そっ!かんわいぃ娘からバレンタインのプレゼントが届いたの!見る?見る?」
 デレデレとだらしなく頬を緩めて、虎徹は手にしたスマートフォンの画面をスライドした。
「ジャーン!これこれ!」
 向けられた画面には、可愛らしくラッピングされたクッキーと、虎徹と電話しているところだろう、家の電話のモニターに映し出されている楓の姿。驚いた顔になっているのは、不意打ちで写真を撮りたがる虎徹のせいに違いない。電話を掛けている時にその向こうから写真を撮られるとは、あまり予想しない事だ。
「へえ……楓ちゃん手作りのクッキーですか?可愛いですね」
 バーナビーが目元を綻ばせ、柔らかに微笑む。
「そおっ!手作りなんだよ、すっごいだろぉ?さっすが俺の娘!」
「それで『女の子は大変だ』って話と、どう繋がるんですか?」
 スマートフォンの画面にキスしかねない様子の虎徹にかすかに笑い、バーナビーが話を促す。
「んん?あー、そう、それな!昨日うちにこれが届いたから、実家に電話したわけよ。うちの母親が出たんだけどさ、楓の奴、チョコ作ってて手が離せないとかって最初電話替わらねーんだわ。本命チョコでも作ってんのかってちょい焦ったらさ、母ちゃんが言うには『友チョコ』なんだと。今の子は女の子の友達同士で配り合うんだとよ」
「はあ……」
「俺らの頃はさー、本命か義理か、今年は何個貰えるかっつって、ソワソワしたもんだけどなー。今は女の子の友達にあげる方が多いんだってよ。女の子も色々大変だけど、それじゃ男子の立場ねぇよなぁ」
 苦笑しながらもどこか嬉しそうなのは、娘にまだ恋愛の影が見えない事にほっとしたからなのか、どうなのか。スマートフォンの画面を見つめたままだった虎徹が、ふと思い出したように傍らをゴソゴソと探った。脱いだまま、ぐしゃりと投げ出していたコートのポケットを探る。
「そーだ、忘れたら楓に怒られるとこだった。ほい、これ」
 ポケットから引っ張りだした小さなビニールの袋を、バーナビーに手渡す。先ほどの写真に写っていたのと同じ、透明の地に白いレースが描かれたビニールのパック。中にはチョコチップ入りのココアクッキーが数枚入っている。リボンの色はピンクで、そこだけ先ほどの写真のものとは違っていた。
「これ、僕に、ですか?」
「そ。楓から。うちのチビ、お前のファンだからなー」
「ありがとうございます。虎徹さんのと、リボンが色違いなんですね。……僕らのイメージカラーだ。細やかだな、楓ちゃん」
「……お前、勘違いすんじゃねーぞ!?義理だからな!?あくまでも義理チョコなんだからな!?うちの娘はやんねーぞ!?」
「はい?」
 クッキーの袋を右手に、カフェオレのカップを左手に持ったまま、バーナビーが首を傾げる。突然に焦り始めた虎徹の言っている事の意味が、なんとなくはわかるのだが。なんとなく。……半分ぐらいは。
「……虎徹さん」
「んだよ」
「さっきから使ってる『ホンメイ』とか『ギリ』とかって、何なんです?」
 わからないのは、そのあたりの単語だ。なんとなくわかるような、わからないような。小首を傾げたまま、バーナビーはじっと虎徹を見つめる。
「そりゃお前……」
 見つめられるままにポカンと口を開けて見つめ返していた虎徹が、ようやく思い当たったように膝を打った。カップのコーヒーが零れる。
「あっちち!そっかそっか、シュテルンビルトとじゃ、あれだっけ。バレンタインの習慣、違うんだったか」
「火傷しますよ、まったく……習慣、ですか?」
 虎徹にハンカチを差し出しつつ、バーナビーはさっきよりも更に不思議そうな顔をする。差し出されたハンカチで遠慮なくコーヒーを拭き、虎徹はこくりと頷いた。
「そ。こっちじゃバレンタインはカップルのイベントって感じで、プレゼントも男の方がするのがメインじゃん?オリエンタルタウンだとさー、女の子が好きな男にチョコレートをあげて告白するイベントみたいになってんの」
「へえ……」
「ま、それも今は古い話なのかもなー。好きな男にあげるチョコが『本命』で、その他大勢……ま、仲良い男友達とか?そーいうのにやるのが『義理』な」
「なるほど、それで先ほどあなたは義理だ義理だ娘はやらないと騒いでらしたんですね」
「や、まあ……」
 カフェオレのカップを傍らのテーブルに置き、呆れたようなため息をひとつ。眼鏡のブリッジを押し上げて片眉を上げてみせるバーナビーに、虎徹は居心地悪げに視線を逸らした。
「……確かに楓ちゃんはとても愛らしい、素敵なお嬢さんですけどね」
 その言葉に反応してグワッと顔を振り向ける虎徹の視線を正面から捕らえ、バーナビーは鮮やかな笑みをその顔に浮かべてみせた。人を引き付けずにおかぬ、強さのある笑顔。
「僕が貰いたいのは、娘さんじゃなくてそのお父さんの方ですから」
 ご存知でしょう?そう囁けば、虎徹は一瞬呆気に取られた後で、真っ赤になった顔を慌ててハンチングで隠した。
「だっ!……おっまえ、なぁ……!」
 赤くなった顔は隠せても、黒髪から覗く耳の赤さまでは隠せない。
「何照れてるんですか」
「照れ……っ、て、ねぇよ!」
 喚くその唇に、キスをして黙らせてしまいたいな。そんな事を頭の片隅で思うともなしに思いつつ、バーナビーはするするとパッケージのリボンを解いていく。袋を開ければ、ふんわりと甘く香ばしい香りが漂った。
「でも、良かった」
「……何がだよ」
 まだ赤らんでいる頬を隠したいのか、ハンチングから目だけ覗かせた上目遣いで、虎徹が問いかける。ふてくされたような声は、けれどバーナビーを微笑ませるばかりだ。ハンチングの下では、どうせ下唇を突き出しているに決まっている。
「虎徹さんが、今日がバレンタインデーだと、ちゃんと認識してらして。良かったです。……どういう風に切り出そうかなって、迷っていたので」
「……どゆこと?」
「バレンタインデートの、お誘いです」
「へ」
 ぽかんと間の抜けた顔を晒す虎徹に笑い、バーナビーはおねだりをするように甘く首を傾げた。
「本当なら、良いレストランでも予約したらいいのでしょうけれど。いつ出動がかかるかわからないし、落ち着かないのは嫌なので。……僕の家で、今夜。ディナーをご一緒頂けませんか、虎徹さん?」
 何を改めて、と。照れくささと共にそう言いかけた虎徹の言葉は、ひどく甘ったるい癖にどこか懇願するような色を帯びたバーナビーの瞳とかち合い、宙に溶けて消えてしまった。
 ほんの少し戸惑った虎徹の気配を感じてか、バーナビーの顔が曇る。
「あ……っと。少し、浮かれ過ぎかな……すみません」
「いやいやいや、んな事ねーよ!?おじさん、ちょっとびっくりしただけだからな!」
 嫌がってねーよ!?と念押しすると、ようやくバーナビーはほっと息を吐いた。いつだって小生意気で強気で自信満々の癖に、ふとした時に素直に気弱な顔を晒してみせる。虎徹がそれにどれほど弱いか、この小兎は知っているのかどうか。
「良かった……。愛する人のいる、初めてのバレンタインデーなので……とても、楽しみだったんです」
 うつむきがちにほんのりと頬を染めながらそんな事を言う年下の恋人の様子に、虎徹の頬にもじわじわと朱が上り始めた。

 ――……っだ!

 声には出さず、心の中だけで叫ぶ。手の中のコーヒーのカップを勢いで握りつぶしそうになるのを、どうにか堪えて。

 ――なんっ……つう恥ずかしいセリフを!こいつは!

 ここ会社だぞ!?などというのは今更な話。朝っぱらの休憩室が先ほどからふたりで貸し切り状態で、人の寄りつく気配もないとは言え、恥ずかしいセリフならば既にいくつも聞かされている。
 耳まで赤くなった顔を誤魔化すように、虎徹はすっかりぬるくなったコーヒーをすする。そんな彼の視線の先では、年下の恋人が彼の娘の手作りクッキーを一枚、口に運んだところだった。真っ白な歯が、焦げ茶色のクッキーをかじる。ポリポリという音がどこかあどけない風情で、たったそれだけの事に、何故か虎徹は胸の奥の柔らかな場所をぎゅっと掴まれたような心地になってしまう。この若造が愛おしくてたまらないのだと、こんな時に不意に思い知らされてしまうのだ。
 見つめる虎徹の視線に気付くと、バーナビーは柔らかに目元を和ませ、
「とても美味しいです。楓ちゃんにお礼を伝えて下さいね、虎徹さん」
 まるで絵物語の王子様のように綺麗な微笑で、そう囁いた。





 午後からは、バーナビーは雑誌のインタビュー。虎徹はデスクワークから解放され、晴れて自由の身となった。緊急出動さえかからなければ、今日はこのままトレーニングセンターにでも寄り、無事に一日が終わるはずだ。
 ハンチングを軽く片手で押さえつつ、虎徹は踵を軸にくるりと回った。広大なショッピングモールに、高級感溢れるデパートメントストア。周囲を取り囲むビルの数々を見回し、ことり、首を傾げる。
「さて、と……」
 ざりざりと顎髭を擦って、男は思案顔だ。

 ――何がいーんだろなぁ……

 さっぱりわかんねぇ、と口の中で呟いて、小さくため息をつく。バレンタインのプレゼントなんて、何をしたらいいのかさっぱりだ。虎徹がこの行事に縁があったのは、亡き妻が存命の頃までの話なのだから。
 シュテルンビルトに移って、こちらでのバレンタインの習慣を知り。柄じゃないと思いながらも、花束を贈ってみた事があった。結婚して間もない頃の事だ。亡き妻は一瞬驚いた顔をして、それから柔らかに微笑んで、ひどく大切そうに花束を抱き締めていた。
 その時の事を思い出し、じんわりと胸の奥が熱くなる。幸せと痛みとが同居した、遠く切ない記憶。いつだって胸の真ん中にいる彼女は、大事な思い出をいくつもいくつも残してくれた。

 ――何を喜ぶんだろうなあ……あいつ

 自分がプレゼントを選ぶのがあまり上手くないらしいという事を、虎徹も薄々ながら自覚している。サプライズは大好きだし、プレゼントをするのも楽しいのだが、どうも外しがちのようなのだ。バーナビーと知り合った最初の誕生日だって、散々悩んでも思いつかず『俺がプレゼント』などと言って周囲に呆れられたくらいだ。娘に選ぶプレゼントも、いつもどうも今ひとつな反応しかもらえない。
 でもなあ、と虎徹は思う。何か、してやりたいのだ。バーナビーが喜ぶような事を、何か。
『愛する人のいる、初めてのバレンタインデーなので』
「っだ!」
 不意に先ほどの言葉が耳に甦り、虎徹はひとり、意味もなく小さく叫んだ。褐色の頬が、一瞬で真っ赤に染まる。
 慌ててハンチングを引き下げうつむいた虎徹を、誰も特に気に留めはしない。寒さの中、皆足早に歩いて行くだけだ。ほっと吐息をつき、虎徹はぼんやりと佇んだままに指先で頬を掻いた。

 ――愛する人、なあ……

 バーナビーとの関係のいくつもの肩書きの中に『恋人』というものが書き加わって、まだ日が浅い。ヒーロー業に復帰して、コンビを再結成して。めまぐるしいほどの忙しさと、例えようもないほどの楽しさの中で、想いを告げられて。
 自分がまさか、また恋に落ちる日が来るなんて思ってもいなかったというのに。それも相手はあんなに年下の同性で、ついでに言えば仕事の相棒だ。何もかも、虎徹にしてみれば考えてもみなかった事ばかりだ。
 けれど。胸の奥、確かにあの年下の相棒への愛おしさが横たわっていて、それはひどく幸せな熱さで虎徹を満たしてくれた。
 たまらなく可愛くて、悔しいくらいに男前な、自慢の恋人。そんなバーナビーが初めて過ごす、愛する人とのバレンタインデーだと言うのだ。喜ばせたいと、思うではないか。
「あー……なぁにがいいんだろなぁ……」
 つらつらと考えながら歩いて来れば、いつの間にかショッピングモールの中だ。HAPPY VALENTINE!の文字がそこかしこで踊っている。
 巨大なショッピングモールの中央広場で立ち止まり、ぐるり、周囲を見渡す。赤やピンクのハートの風船がふわふわと浮き、否応なしにバレンタイン気分を盛り上げている。モノレール駅に繋がっているこのフロアは、人の行き来も多かった。
 両腕に溢れんばかりの赤い薔薇を抱えた青年が、急ぎ足で通り過ぎていく。腕を絡めて寄り添うカップルが覗いているのは、近頃人気のジュエリーショップだ。バレンタイン仕様のランジェリーショップでは、女性二人が真剣な顔付きで品定めをしている。
 そんな様子を腕組みしたまま眺めていた虎徹の視界に、広場に設置されたモニターが飛び込んできた。
『大切な人に贈るのは、何?』
 踊る文字、流れる音楽。
『愛の言葉?』
 セクシーな美女が、流し目を寄越しながら唇を指先で辿る。
『感謝の気持ち?』
 辿る指先は唇から喉元へ、そして露わな胸元へと降りていく。
『それとも……』
 意味深な間。大抵の男ならば身を乗り出してのぞき込んでしまいそうな胸元に、するりとネックレスが滑る。煌めくダイアモンドが胸元を飾り、美女のしなやかな首筋には後ろから男の口吻けが落とされる。ジュエリーブランドのCMだ。
 モニターに流れるそれをぼんやりと眺め、虎徹は小さく首を振った。
「これじゃねーだろーしなぁ……」
 呟いたところで、ふと動きを止める。
 これじゃ、なくない。
 その通りだ。贈りたいものは、愛の言葉だ。感謝の気持ちだ。お前が大切で仕方ないよ、と。そう伝えたいだけなのだ。
 急に迷いが晴れたような気持ちで、虎徹はひとり頷く。贈りたいものを贈る、それがきっと一番想いを伝えてくれるだろうと、そう思いながら。



 通い慣れた感のあるバーナビーの部屋の前で、深呼吸を一回。虎徹はゆっくりとインターホンを鳴らした。スペアキーも暗証番号も生体認証の登録も済ませてあるが、今日はやはり、こうするのがセオリーというやつだろう。
『虎徹さん?』
「おう」
『今開けますね、待ってて下さい』
 ふふ、と笑いを含んだバーナビーの声で、どうやら判断は正しかったようだとわかる。たったそれだけの事が楽しくて、虎徹はくく、と小さく笑いを零した。
 途端、目の前のドアが開かれる。
 ふわふわと跳ねた髪を後ろでひとつに束ね、黒いエプロンを着けたままのバーナビーが、虎徹の姿を見て嬉しげに微笑む。
「いらっしゃいませ、虎徹さん」
「本日はお招きに預かりまして」
 おどけた口調でそう返し、招き入れられるままに部屋へと足を踏み入れる。キッチンへ直行しようとすると、慌てたようなバーナビーに止められてしまった。
「なーんだよ、いいだろぉ?」
「ダメです!もうすぐ出来ますから。リビングでおとなしく待ってて下さい」
「つまんねぇの。何か手伝う事ないかー?」
「ありません!僕には僕の手順があるんです」
 その言葉に笑い、虎徹は持ってきたワインを手渡した。
「これ、手土産な。お前の好きなロゼだけど、今日の料理に合うかどうかわかんねーから、適当にしてくれ」
「ありがとうございます。とりあえず、少し冷やしておきますね」
 受け取ったバーナビーは虎徹の頬にキスをひとつ落とし、そのままキッチンの方へと消える。バーナビーから漂っていた美味しそうな匂いからして、夕飯の出来は期待しても良さそうだと思いつつ、虎徹はコートを脱いでリビングの椅子にどっかりと座った。
 ちらり、脱いだコートに視線をやる。その陰に隠れるように、バーナビーへのプレゼントの箱が見え隠れしていて。気恥ずかしいようなドキドキするようなそんな気分のままに、虎徹は椅子の上で膝を抱えておとなしく出来上がりを待っていた。



 それからほどなくして、いい匂いと共にバーナビーが虎徹を呼びにやって来た。相変わらず家具らしい家具のないリビングは、今日のディナーには不向きらしい。いつものようにひとつの椅子を分け合うのも、窓辺の段差で食べるのもなしだ。
 ほんの少し自信なさげなバーナビーの顔が可愛くて、虎徹はキッチンへと向かいつつ、こっそりと笑みを噛み殺した。

 ――やばい。可愛い。写真撮りてぇ

 けれどそんな事をすれば、怒り出すのは目に見えている。写真におさめて何度も見返したい衝動を押し殺し、虎徹は素知らぬ顔でキッチンのドアをくぐった。
「うっわ、いい匂いしてんなー!」
「匂いだけじゃないといいんですけど……」
「どれどれ?」
 キッチンから続くダイニングには、小さなテーブルがある。その上に並べられた、ふたり分の皿。それを見るだけでも暖かい気分になるのは、ひとりきりの寂しさを知っているからだろうか。
「うっまそー!」
 喜ぶ虎徹が席に着けば、グラスにワインが注がれる。濃い目のピンク色は、虎徹が手土産に持ってきた辛口のロゼだ。バーナビーもグラスを掲げ、ふわり、虎徹に微笑みかけた。
「……初めてのバレンタインデーに」
「う……お、おう」
 恥ずかしさのあまり叫び出したい衝動を堪え、虎徹はグラスを軽く合わせる。軽く冷やしたロゼは、黒すぐりやベリー類の香りを感じさせながら、するすると喉を潤した。以前はほとんど口にしなかったロゼのワインも飲むようになったのは、確実にバーナビーの影響だ。
 こんな風に、互いの中に互いの存在を見つける事がどんどん増えている。それが気恥ずかしくもあり、嬉しくもあり。
「んじゃ、バニーちゃんの力作を頂くとするかなー」
「と言っても、そんなに凝ったものはまだ……」
「んな事ぁねーよ?充分凝ってると思うけどな」
 言って、トマトとプロシュットのブルスケッタに手を伸ばす。トマトの酸味がプロシュットの塩気と脂を引き立てて、食欲をそそる。挽きたての黒胡椒の香りに誘われるように、虎徹はもう一口、ブルスケッタをかじった。
 バーナビーの碧の瞳が、じっと虎徹を見つめている。
「うんまい!バニちゃん、腕上げたな?」
「そんな……刻んでバゲットにのせるだけですから」
 言いながらもほっとしたような顔をして、バーナビーはようやく自分も料理の皿に手を伸ばした。そんな恋人の顔を眺めて、虎徹も柔らかに笑う。添えられたオリーブの実をのせれば、味と香りがまた変化して、絶妙なつまみになった。
「や、ほんとに美味いよバニー。俺、これ好きだわ」
「良かったです。……実を言うと今日のメニュー、以前に虎徹さんが好きだって言ってくれたものばかりなんです」
「え、そーなの?」
「ええ」
 言われてみれば、もう一枚並べられている皿には、蒸し鳥のサラダ。以前に虎徹が作り方を教えたものだ。そして、今キッチンに漂っているこの香りは。
「あー!牛のワイン煮か!どーりでいい匂いすると思った!」
「ええ、牛すね肉の赤ワイン煮です。あの時、虎徹さん、とても嬉しそうに食べてらしたので」
 また、食べて欲しくて。
 そう囁くバーナビーの顔があまりにも幸せそうで、虎徹の胸にも幸せが伝染してくる。我知らず顔が綻んで、どうしようもないほど嬉しくなってしまう。
「俺が好きって言ったの、ちゃんと覚えてくれてんだ?」
「もちろんです。何故?」
「いや、なんか……そーゆーの、すっげぇ嬉しいもんなんだな。ありがと、バニー」
 微笑みながら素直にそう言えば、バーナビーは虚を突かれたように目を丸くして、それからゆっくりと頬を染めた。白い肌に淡く朱が差すのが、ひどく愛らしく……そして色っぽい。そんな顔を堪能しつつ、虎徹はグラスを傾けた。食欲だけでなく心までも満たす幸せな食事は、まだ始まったばかりだ。



 メインである牛すね肉の赤ワイン煮までを綺麗に平らげて、虎徹は満足げな息をついた。
「ほんっと美味かった!ご馳走さん、バニー」
「いえ……こちらこそ、食べて頂けて嬉しかったです。ありがとう、虎徹さん」
「なーに言ってんだよ……」
 食器をシンクに運ぶバーナビーの背中を眺め、鼻の頭に小さなしわを刻む。ありがとうも嬉しいも、こっちのセリフだと言ってやろうとして、ふと気付く。そんなところまでも今、多分同じ気持ちなのだ。気付いてしまえば急激に照れくさくなり、虎徹はおとなしく口を噤んだ。小さく、咳払いをする。
「どうかしました?」
 顔を上げれば、目の前にバーナビーが戻って来ている。照れていますとも言えず、虎徹はぶんぶんと首を振った。
「おかしな人だな……まあいいです。虎徹さん、これ、プレゼント。何がいいか迷ったんですけど、やっぱりあなたにはこれかなって」
「へ?……お、うおお!」
 首を傾げてプレゼントの中身を見れば、オールドヴィンテージのウイスキーだ。滅多にお目にかかれない、プレミアもの。濃い蜂蜜にも似た香りと後口のスモーキーさが特徴の、贅沢な逸品。
「すっげ……!お前、これ、もらっていいの!?」
 酒好きの虎徹ではあるが、この酒を口にした事があるのは数えるほどだ。思わず聞いてしまうあたり、根っからの庶民だと自分でも笑ってしまう。
「プレゼントだって言いませんでした?」
 そんな虎徹に愛おしくてたまらないという目をしてみせて、バーナビーは苦笑を零した。虎徹は目を輝かせ、それからほんの少し、改まった顔になる。
「あの、さ」
「……?はい」
「俺からも、プレゼントあんだけど……」
「虎徹さんからも?」
 ぱっと顔を輝かせ、まるでこどものような笑みを浮かべたバーナビーから目を反らし、また視線を戻し、しばしうろうろと視線をさまよわせて。意を決したように、虎徹はようやくプレゼントの箱を取り出した。
「その、な。食後のデザート代わり」
 上品な焦げ茶色の包装紙には、黄金の箔押しで模様が描かれている。掛けられたリボンも光沢のある深紅で、一目でなかなかの高級品なのが見て取れる。受け取ったバーナビーが、その包み紙を丁寧に解いていくと。
 中から現れたのは、つやつやと輝く香り高いチョコレートだ。ころりとしたその粒が、行儀良く箱の中に並んでいる。
 オリエンタルタウン育ちの虎徹にとって、バレンタインと言ったらやはりチョコレートなのだ。愛の込められた、可愛らしくも官能的な一粒。
「わ……」
 小さく感嘆の声をあげ、バーナビーは箱を開けたまま、その中身に見入っている。虎徹の方はと言えば、落ち着かなげにそわそわとバーナビーの反応を見守っていたのだが。ひとつ、唾液を飲み込んで、息を吸う。
「その……バニー。いつもありがとな。……今日、俺と過ごしたいって、そう思ってくれてありがとう」
 一言一言、噛みしめるように言葉を紡いで。そして、想いを言葉にできた事に満足したように鮮やかに笑う。
「そ、んな!僕が、僕の方こそ、嬉しくて、すごく」
 その言葉にも笑顔にも飲まれてしまったかのように、バーナビーの返事はつっかえつっかえだ。
 ふたり揃って、頬を赤く染めながらじっと見つめ合う。先に口を開いたのはバーナビーの方だ。
「虎徹さん、ありがとうございます。すごく嬉しいです」
「……おう」
「ね……これ、食べさせて下さい」
「はぁっ!?」
「ダメですか?」
 しょんぼりとした声と顔は、半ば以上演技だとわかっている。わかっては、いるが。

 ――……っだ!バレンタインだ!バレンタイン!

 魔法の言葉を自分自身に言い聞かせ、虎徹は赤くなった顔のままに箱の中のチョコレートを一粒、指でつまんだ。己をじっと見つめる男の唇に、ゆっくりと含ませる。白い前歯がつややかなチョコレートを受け取り、形の良い唇が虎徹の指を挟む。
 熱く柔らかなその唇から指先を抜き取り、恋人がチョコレートを味わうその動きを、指先で追って。カカオの濃厚な香りを漂わせる唇に、触れそうなほどの距離で小さく囁く。
「……本命、だからな」
「え?」
 問い返す唇に有無を言わさぬキスを仕掛け、舌でチョコレートの味を辿る。オレンジリキュールをたっぷりと含んだガナッシュが濃厚に味と香りを残すその舌に、自らの舌を絡めて。聞き返そうとバーナビーが抵抗するのをいなして封じ込め、口吻けを続ける。
 チョコレートの味もすっかり消え失せる頃には、どちらのものともつかない甘い吐息があたりを満たすだけだ。
 誰よりも可愛くて仕方ない恋人との、甘い甘い、贅沢な一時。



20120212 了








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