兎×虎。寝る前に飲むミルクの話。甘いあまい、あまーい。


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 最後の一口、グラスの底に残った酒を喉を反らして意地汚く啜れば、白く綺麗な手が伸ばされる。もうおしまい、とばかりにグラスを取り上げられ、虎徹は小さく唇を尖らせた。
 その顔に、苦笑が零される。
 眼鏡の奥の瞳が柔らかに細められた。仕方なさげな、それでいて愛おしげな笑み。
 酒の代わりのように、笑みの形のままのバーナビーの唇が虎徹の唇を啄む。
 ちゅ、とかすかな音を立てて離された唇は、虎徹と同じくウイスキーの香りがした。スペイサイド・モルトの煙るように甘やかな香り。香りを惜しむように唇を追いかけ、虎徹はその下唇を甘く食んだ。
 薄めの唇を軽く食まれ、バーナビーはお返しのように虎徹の上唇の頂に口吻ける。
 くすぐったいようなキスの応酬に、互いに小さく笑いを零して。バーナビーは軽い音を立て、虎徹の鼻の頭に口吻けを落とした。
「……ミルクを温めて来ます。眠かったら、先にベッドに入っていて下さい」
「ミルク?」
 意外な単語に虎徹が首を傾げれば、バーナビーはほんの少し照れくさそうに頬を赤らめた。
「あ……子供みたいですよね。習慣なんです、寝る前の」
「あっためた牛乳飲むのが?」
「ええ」
「へえ……初めて知った」
 目を丸くした虎徹の視線から逃れるように、バーナビーは頬の染まった顔を逸らす。
「言いませんでしたから。ほら、もうそんな事どうでもいいでしょう。ベッド行ってて下さいよ」
 空いたグラスを手にそう追い立てるバーナビーに構わず、虎徹はテーブルの上の空いた皿を手にキッチンへと向かう。その後を慌てて追いかけ、青年は空を仰いで嘆息した。
「もう……後片付けはいいですから」
「いいだろ、俺もやるって」
「あなた、面白がってるだけでしょう」
 むすりと膨れて横目で睨めば、虎徹はバレたかと呟き首を竦める。
「だーって、バニーちゃんがあっためたミルク飲んで寝るなんて知らなかったもんよ」
「今まではお酒飲んでそのまま寝ちゃってましたし……」
 そこでバーナビーが、視線を宙に彷徨わせて言い澱む。
 初めて虎徹がこの部屋に泊まった時だって、ふたりで酒を飲んでそのまま雑魚寝状態だった。それ以降幾度かあった酒盛りもまた、最終的にはふたり揃って床でごろ寝する有様だったのだ。ミルクを温めるどころの話ではなかった。
 そして。
 彼らがこうしてベッドを共にするようになってから、幾つかの夜を過ごしているのだが。そんな時はそれこそ、ミルクを温めるどころの騒ぎではない。……まあ、そういう事だ。
 不意にその事に思い当たったのか、虎徹がじわり、頬を赤らめる。片手で口元を覆い、困ったように視線を彷徨わせた。
 それを目にしたバーナビーもまた、頬を染めてうつむく。
 ふたり揃って頬を朱に染めて、キッチンに漂うのは何とも微妙な空気だ。下手に藪をつついて思わぬところから蛇を出した虎徹は、シンクに置いた皿とグラスを洗うのに集中した。下を向いていれば、赤くなった顔を隠すのは簡単だ。
 そんな虎徹を流し見て。

 ――ああ、照れてる……可愛いな、もう……

 自分の方こそ照れている癖に、バーナビーはそんな事を思う。ほんのりと頬を染めたまま、青年はそっと恋人に顔を寄せた。黒髪からのぞく、赤く染まった耳にキスを落とす。
「……っまえ、なあ!」
 喚く虎徹をすいとかわし、バーナビーは冷蔵庫の扉を開けた。慣れた仕草でボトル入りの牛乳を取り出し、ミルクパンに移す。そのまま鍋を電子コンロに乗せる様子を洗い物を終えた手を拭きつつ眺め、虎徹は少し意外そうに目を見開いた。
「へえ……」
「……何です?」
「いや、バニーちゃんの事だから、コップに入れてマイクロウェーブでチン!かと思ってた。ちゃんと鍋でやるんだな、偉い偉い」
 茶化すわけでもなくそう言えば、バーナビーは軽く肩を竦めてかすかに笑った。蜂蜜色の柔らかな髪が、動きと共に揺れる。
「ああ……そうですね、鍋で温めます。その方が美味しいと、昔教わったもので」
 言いながら、食器棚からカップをふたつ取り出す。コトリ、キッチンに置かれたカップは大きめのマグカップと耐熱ガラスでできたグラス。
 揃いでもなんでもないそれを眺め、虎徹は目元を綻ばせた。目尻に寄るかすかな皺が、柔らかな雰囲気と男の色気とを同時に醸し出す。
「俺の分もあっためてくれてんの?」
「当然でしょう」
「あんがと」
「いいえ」
 ふたり分の牛乳が、ミルクパンの中でゆっくりと温められていく。
「お袋さん?」
「はい?」
「いや、鍋であっためろって教えてくれたのって」
「あぁ……いえ」
 うちの両親は忙しい人だったので。そう前置きし、バーナビーは小鍋の中の牛乳から目を離さずに言葉を続けた。
「サマンサおばさんが……うちで家政婦をしてくれていた人ですが、彼女が教えてくれたんです。怖い夢を見たんだったかな、あの時は……眠れないって泣く僕に、こんな風にミルクを温めてくれながら『良く眠れる魔法の飲み物ですよ』って。蜂蜜を混ぜたそのミルクを飲んだら、本当に嘘みたいにぐっすり眠れたんです」
 美味しかったな、あの時のミルク。
 そう呟くバーナビーの横顔、そのかすかな笑みを見つめて、虎徹はわずかに目を細めた。胸の底に、小さな痛みが走る。
「……その頃からの、習慣なのか?」
「いえ……習慣になったのは、両親が亡くなって……しばらくしてからでしょうか」
「眠れなくて?」
「まあ、そうですね。……両親が殺された時の夢を、何度も何度も夢に見ては飛び起きていたんです。それで、サマンサおばさんに教えてもらった事を思い出して飲み始めたのがきっかけだったかな」
 何でもない事のように淡々と、バーナビーは言葉を続ける。
「それから、ずっと?」
「ええ、まあ」
 鍋のふち、白い牛乳がふつ、ふつ、と小さく身じろぎを始める。それはどこか、今、虎徹の胸に広がる痛みにも似ていた。
 たった四つのこどもが、ひとりで牛乳を温める姿を思う。
 コンロに背すら届かない、小さな小さなバーナビー。あの写真に写っていた、天使のように愛らしいこども。
 眠れないと泣き、夢を見たくないと言って泣く子を、抱き締める腕はあったのだろうか。その心に寄り添う人はいたのだろうか。いたのであって欲しい、心の底からそう思い、虎徹は締め付けられるような胸の痛みをじっと押し殺す。
 四歳のバーナビーを、抱き締めてやりたかった。
 叶わぬ望みとわかってはいても、幼い彼を抱き締めて、大丈夫だと言ってやりたかった。抱き締めて、背中を撫でて、悪い夢など追い払って。
 ……叶わぬ望みと、わかってはいるけれど。
 ミルクパンの中身を覗くバーナビーの横顔を、琥珀の瞳が見つめる。二十年前のバーナビーを見つめているかのような、慈しむ眼差しで。
 虎徹の娘……楓が母を失ったのも、バーナビーと同じ四歳の時だった。
 たった、四つだったのだ。
 日毎夜毎、母を呼んでは泣き疲れて眠っていた。泣き止まぬ娘を抱えて虎徹もまた一緒に泣いた事も、数え切れぬほど。
 それでも、楓には虎徹がいた。そして、虎徹にも楓がいた。安寿も、村正も傍にいてくれた。愛する人に去られてしまっても、ひとりぼっちではなかったのだ。
 ……けれど、バーナビーは。
 胸の痛みを堪えるように、虎徹がぎゅっと両の目を瞑る。その耳に、柔らかな声がするりと落とされた。
「……本当は、もう必要ないのかもしれないんです」
 声に目を開ければ、鍋の中を見つめたままのバーナビーが、ゆっくりと言葉を紡いでいる。牛乳がふわりと沸き立ったところでコンロから下ろし、青年はふたつのカップに丁寧にそれを注いだ。
「必要ないって、何が?」
「眠る前のミルク」
 耐熱ガラスでできたグラスを、熱いですよと前置きしてから虎徹に手渡す。マグカップに注いだ方を自分の手の中にくるみ、バーナビーは言葉を選ぶように視線を彷徨わせた。
「あの時の夢を……あまり、見なくなったので」
「ジェイクを倒したからなんかな、良かったなぁ」
「ええ、それもあるんだと思いますが……」
「うん?」
 珍しくゆっくりと言葉を選ぶバーナビーを、虎徹は決して急かさない。受け取ったグラスで掌を温めながら、年下の相棒の顔を眺めている。
 白くなめらかなバーナビーの頬がほんの少し染まり、薄く上品な唇が、また音を紡いだ。
「あなたが傍に居てくれると……見ないんです」
「へ」
「……だから!ああもう……いいです。恥ずかしい……」
 ついに恥ずかしさが極限に達したのか、バーナビーは赤くなった顔を片手で覆って横を向いてしまった。そんなバーナビーに苦笑し、虎徹はグラスをキッチンカウンターに置いてその顔をのぞき込んだ。
 真っ赤になった顔を隠す柔らかな蜂蜜色の髪を、指先でかき上げる。絹糸のようなその感触が、指にひどく心地良い。
「……俺が傍にいると、見ないのか?」
「もういいです、その話は」
「よーくーなーい」
 こどものような言い方でそう言い募り、自分よりも少し高いところにある碧の瞳をじっとのぞき込む。
 朱を上らせた目元、長くて濃い黄金の睫毛、煙るようなそれに囲まれた、硬質で清廉な、瞳。けれどその碧は今は印象を変えて、どこか恥ずかしげに揺れている。
「見ない、のか?」
 身長差のせいで自覚なしに少しだけ上目遣いになりながら、虎徹が問いを重ねる。赤くなった顔を往生際悪く片手で覆ったままに、バーナビーはしばし迷い。やがて、諦めたようにその手を外した。染まった頬と目元が、彼を年齢よりも幼く見せる。
 バーナビーの小さなため息が落ちた。
「……まったく、あなたって人は……」
「言い出したのは自分だろ?」
「ええ、そうですよ。まったく!」
「何キレてんだよ……」
 照れてしまってむくれているその様が可愛く愛おしく、虎徹は思わず笑ってしまった。両手でバーナビーの頬を挟み込み、笑いながらその下唇に軽く口吻ける。十以上も年下の男は、むくれながらもキスの誘惑には抗えず、素直に唇を啄み返した。
 ほんのりと染まったままの目元を指先で撫で、虎徹は柔らかな金の巻き毛に指を埋めた。くすぐるように地肌を撫でてやれば、青年はマグカップを置き、両手でそっと男の腰を抱き寄せた。キッチンカウンターにもたれた姿勢のままに、細い癖にしっかりとした虎徹の腰を柔らかに抱く。
 コツリ、額と額とが合わさる。
 言葉の続きを促すように鼻先を擦り合わせれば、観念したようにバーナビーは小さなため息を零した。
 ゆっくりと、口を開く。
「……あなたが傍にいてくれると……ぐっすり眠れるんです。そんな夜なんて、この二十年で数えるほどだったはずなのに。悪い夢も見ずに……幸せな気持ちで目覚める事ができる」
 あなたが、傍にいてくれるだけで。
 吐息だけでそう囁き、バーナビーは男の肩口に顔を埋めた。その言葉にゆるやかに笑み、虎徹は己にもたれる青年の背を静かに撫で下ろす。
「……そっか」
「はい」
 そっか。
 もう一度吐息のように言葉を落とし、男は撫で下ろしたバーナビーの背を深く抱き締めた。ゆるやかに腰を抱いていたバーナビーの手が、それに呼応するかのようにきゅっと動く。
 抱き締めた腕で青年の背中を辿り、撫で下ろし、虎徹は長く細い息を吐く。

 ――……ああ……

 しっかりと鍛え上げられ筋肉のついた、広い背中。肩胛骨の尖りを掌でくるみ、背骨の形を確かめるようにひとつひとつ指先で辿る。シャツの布地越しに触れる筋肉は熱く力強く、そしてしなやかだ。
 感嘆するようにそんなバーナビーの背中を撫で、虎徹は静かに両の瞳を閉じる。
 腕の中にいるのは確かに成人した、鍛え上げられた美しい若者であるのに。
 同時に、四歳の眠れぬこどもでもあった。
 あなたが傍にいてくれるだけで眠れるのだと、そんな可愛い事を言う幼い子。不埒な夜の匂いと甘い日向の香りとで虎徹の心を蕩かしてしまう、寂しがり屋の年下の恋人。
 この見事な肢体の中で泣いている四歳のバーナビーごとその身体を抱き締めて、虎徹は深く深く息をついた。
 彼がどうしようもなくバーナビーを甘やかしてしまいたくなるのは、こういう時だ。頭を撫でて、キスをして、何でも許してやりたくなってしまう。自分でもどうしようもないと思いながら、それは偽らざる虎徹の本心だった。
 頼られたくて、可愛がりたくて、甘やかしたくて仕方がない。
 年下の者、小さなこども、可愛いと思ったそんな相手に殊更に兄や父のように接したがるのは、昔からの虎徹の癖のようなものだ。ヒーローであってさえ、年若い者達に対してはそういう態度で接してしまう。
 それが時には煙たがられ、また時には相手に予想外の好意を抱かれる原因ともなるのだが、彼自身はあまりその自覚はないようだ。ただもう、可愛い奴めと頭を撫でて、頑張る姿など見てしまえば胸がいっぱいになるような、そんな男なのだ。
 無論、そういった年下全般に対する感情とバーナビーに対する感情は、完全にイコールではない。イコールではないが、重なる部分がないと言えば、それもまた嘘になる。
 こどものように可愛がりたい気持ちと、恋人として甘やかしたい気持ちと。そのどちらもが虎徹の中で微妙に複雑に混ざり合い、バーナビーに対する庇護欲にも似た感情を作り上げていた。

 ――……どーしょもねぇなぁ……

 そんな自分の感情の手に負えなさに苦笑して、虎徹は深く抱き締めたバーナビーの肩に顎を乗せた。
 そうしてやれば、青年は猫の子が甘えるような仕草で頭をすり寄せてくる。蜂蜜色の柔らかな髪が頬や耳元をくすぐるのに喉奥で笑いながら、虎徹は小さく唇を開いた。
「……よし」
「はい?」
「じゃあ、もーっと良く眠れるようにしてやるよ」
「え?」
 抱き締めていた身体から身を離し、虎徹はニカッと全開の笑顔を浮かべる。名残惜しげに腰から離れるバーナビーの腕を軽く指先でなぞりつつ、男は酒瓶の並ぶ棚の前へ立った。
 ワインセラーとはまた別の、蒸留酒などの瓶がずらりと並べられた棚だ。虎徹が足を運ぶようになって、ここの品揃えにも少しずつ変化が生じている。
 以前から並んでいるブランデーやウイスキーの瓶に加え、ジンやウォッカ、テキーラ、虎徹が好む焼酎も数種類。それらの瓶を流し見ながら、男は上から三番目の棚に手を伸ばした。二本の瓶を鷲掴み、琥珀の視線でラベルをなぞる。
 上質なダークラムと、ゴールデンラム。
 そのまま飲めばとろりと甘く、深く、隠し切れぬ野蛮さと官能の色とを纏う酒だ。その昔海賊達に愛されたという、さとうきびの蒸留酒。
 これもまた虎徹が持ち込んだ……と言うよりは、共に酒を買いに行った時に虎徹が選んだものだ。買う時には興味なさげな顔をしていた癖に、一口飲んで『悪くないですね』と言った、その時のバーナビーの小生意気な顔つきを思い出し、男は小さく笑った。
 可愛い可愛い、可愛い小兎だ。生意気な口をきいたと思えば気弱な顔を晒して見せる、それが手管ではなく天然そのまま純粋培養なのだから。

 ――ほんと、参るよなぁ……

 ゆるむ口元をそのままに、バーナビーのマグカップを引き寄せる。何を始めるのかと不思議そうな顔をする青年を横目でちらりと流し見て、片方のボトルから酒をゆっくりと注ぐ。
 黄金の色をした海賊の酒がとろとろと牛乳に流れ落ち、ラム特有のかすかに癖のある甘い香りがふわり、立ち上る。その香りを楽しむように鼻をひくつかせながら、虎徹はもう片方のボトルからも酒を注いだ。先のものよりも更に濃く深い色合いのラムが、牛乳にほんのりと色を付けながら混ざり込んでいく。
 温かな牛乳の匂いと、樽熟成を経た二種類のラムの濃厚な香りとが溶け合い混ざり合い、甘やかに柔らかに、誘うように立ち上る。鼻孔をくすぐるそれに満足げに笑い、虎徹は腕を伸ばしてシンクからマドラーを取り上げた。マグカップの中身をくるくるとかき混ぜ、バーナビーに手渡す。
「ほれよ」
「……何です?」
「虎徹!スペッシャル!」
「……はい?」
「いーから!飲めよ!うっまいぞぉ?そのー……おばさんの作ってくれた蜂蜜ミルクには負けっかも知れねぇけど。よーく眠れる事間違いなしだ!」
 得意げな顔でバーナビーの顔をのぞき込めば、青年は不思議そうだった顔を綻ばせる。碧の瞳が黄金の睫毛に煙り、品の良い唇が柔らかに弧を描いた。ひどく幸せそうなその笑みがあまりにも綺麗で、虎徹は我知らず、頬を赤らめた。
 不意打ちでこんな笑みを向けられてしまっては。虎徹ならずとも、照れると言うものだ。
「ありがとうございます」
「お、おう」
 素直な礼の言葉に頷けば、バーナビーはマグカップを両手でくるむようにしてそっと口に運ぶ。
 どうだ?どうだ?と聞きたいのを堪え、うずうずしながらその顔を横目で観察していると。一口、それを飲んだバーナビーの唇から小さな吐息が洩れた。
「うん、美味しい……なんだかすごく、暖まりそうな気がします」
「だろぉ?」
 にんまりと笑って、自分のグラスにはバーナビーのものよりもやや多めに酒を足す。
 ふわりとラムが香りを立てれば、こどもを寝かしつける魔法の飲み物はおとなの為の優しい寝酒に早変わりだ。鼻をくすぐるラムの香りに目を細めながら、虎徹はグラスに唇を付けた。
 温かな牛乳のほっとする味わいと、奥行きのあるラムの味とが絡み合い、虎徹の喉から胃の腑にかけてを温めていく。口にした途端、ほっと吐息をつきたくなる、そんな味だ。
 懐かしいような、優しい寝酒。
 これにバターと角砂糖を足せばホットバタード・ラム・カウと名の付くカクテルになるのだが、虎徹の好みとしてはバターと角砂糖は余計だった。こうしてラムを混ぜ込むくらいがちょうど良い。
 可愛い小兎には、蜂蜜を足してやってもいいかも知れないな。そんな事を思いながら横目でバーナビーを盗み見れば、青年は穏やかな顔でマグカップに口を付けている。
 あなたが、傍にいてくれるだけで。
 そんな可愛い台詞を吐いた唇を眺め、虎徹はくしゃりと目元を綻ばせた。
 勘弁しろよ、心の中だけでそう呟き、舌には乗せぬその言葉をグラスの中身と共に飲み込む。

 ――まったく、ほんとに勘弁しろよ、バニー

 あんなに可愛い事を言われたら、何でもしてやりたくなっちまう。そうだろ?
 可愛がりたくて甘やかしたくて仕方なくなってしまう。そんな己を知る虎徹はもうひとつ、心の中で勘弁しろと呟いた。その癖、バーナビーを見る琥珀の瞳はどうしようもないほどに甘く優しく、慈しみに満ちている。
 己を見つめる虎徹の眼差しに気付いたバーナビーがふと顔を上げ、ほんの少し照れたように微笑う。
「本当に……良く眠れそうです。あなたがいてくれて、ミルクも飲んで。悪い夢なんて、入る余地もないな」
「だろ?」
「ええ、ありがとうございます……虎徹さん」
 囁くように名を呼んで、青年は両手にくるんだマグカップのふちに、笑んだ形のままの唇を触れさせた。からかうような物言いをする癖に、その実、こんな風に自分を気遣ってくれる。そんな虎徹の優しさに、今までどれほど助けられて来たか、バーナビーにはもう数える事さえも出来ない。

 ――……これからは、僕も虎徹さんを

 助けられるばかりでなく、自分も虎徹を支えたいと、改めてそう思い。バーナビーは年上の相棒の瞳を見つめたままに、想いを込めて微笑んだ。鮮やかな碧の瞳が、深い色合いに溶ける。
 キッチンに満ちる柔らかな空気はラムの甘い香りを纏い、どこまでも優しい色に満ちていた。




 寝る時の習慣でバーナビーがいつものように下着一枚になると、先にベッドへ入っていた虎徹が、上掛けをめくって己の傍らを手で叩く。
 突いた片肘で頭を支える横寝の姿勢で自分を見上げる年上の人に、バーナビーは我知らず、微笑みを零す。
 黒いシーツを軽く手で叩いて招く姿は、こども扱いされているようでもあり、恋人として甘やかされているようでもあり。彼の意図がどちらにあるのかは判然としないが、そんな風に『おいで』と態度で示されてしまうと、胸がじんわりと温かくなって仕方がない。
 おいで。
 ここに、おまえの居場所があるよ。
 だから早くここにおいで、と。
 そう囁かれているような心地になる。
 招かれるままに虎徹の傍らに潜り込み、肘突きをしたその腕と頭とが作る三角地帯に蜂蜜色の髪を埋めるようにしてすり寄る。片手を腰に回してゆるく足を絡めれば、すぐ傍にある虎徹の喉がくつくつと笑いの音を零した。
「……何ですか」
「いんや……バニーちゃんは可愛い、な……」
 笑みを含んだ低い声は艶っぽいのに、言われた言葉はからかうようなもので。唇を尖らせて言い返そうとすれば、骨張った大きな掌で柔らかに髪を梳かれた。髪を梳き地肌を撫でるその手指の心地良さに、バーナビーはうっとりとため息をついた。
 このままとろりと眠り込みたくなるほどに、気持ちが良い。
 身体中が幸福感に支配されている。
 それは虎徹だけが、この年上の相棒だけが与えてくれる感覚だ。バーナビーがこの二十年、知る事なく生きてきた感情と感覚。胸一杯に広がる幸福感が、指の先から足の爪先、髪の毛一筋に至るまで満ちてバーナビーの身体中を支配する。
 足を絡め、腕を絡め、埋めた鼻先で虎徹の匂いを胸いっぱいに吸い込む。同じ石鹸の匂い、同じシャンプーの匂い、そしてそこにかすかに感じる、虎徹自身の匂い。それはバーナビーの欲望を刺激するのと同時に、とてつもない安心をももたらしてくれる、精神安定剤だ。
 吸い込んだ虎徹の匂いを吐き出しながら、吐息に乗せてその名を呼ぶ。
「……虎徹さん……」
「うん?」
 呼べば、返事と共に髪を撫でる手が襟足をくすぐる。そのこそばゆさに小さく笑い、バーナビーはもう一度その名を呼んだ。
「こてつ、さん……」
「どしたよ、バニー……」
 甘えるようにして額をすり付けると、かすかな笑いが落とされ、そのまま虎徹は突いていた肘を崩した。さっきまでよりも間近に、虎徹の顔がある。顔を上げればすぐにキスのできる距離だ。
 ねだるようについと顔を上げ、顎髭に柔らかに口吻ければ、仕方なさげな苦笑と共に虎徹の唇が降りてくる。温かな唇が、ゆるり、あやすようにしてバーナビーの唇に重なった。
 ……ひどく、甘やかされている。
 バーナビーにもその自覚はあった。こども扱いされるのは嫌だが、恋人として甘やかされるのは堪らない心地良さだ。……そもそもどちらの意味合いの甘やかしなのか、バーナビーに判別できているかどうかは、まあともかくとして。

 ――虎徹さんは、ほんとに優しい……

 重ねられた唇の温かさに、髪を撫でる手指に、うっとりと目を細めながらバーナビーは思う。
 強くて優しい、初めての恋人。
 背中を預ける事の出来る相棒。
 この世でバーナビーがかなわないと思う、たったひとりの人だ。
 まさか自分の人生に、こんな相手が現れるとは思ってもみなかった。そんな人に、こうして愛情を与えられて。
 ……幸せ過ぎて、どうにかなりそうだった。
「虎徹さん」
 呟くように、祈りの文句のように、もうひとつ、その名を呼ぶ。焦点が合わないほど間近にあるその瞳を見つめ、琥珀の色に溺れそうになりながら、バーナビーはゆっくりと瞬きをした。
 幼いこどものような、どこか無垢な表情のままに、ただ無心に虎徹を見つめる。
 そんなバーナビーを見つめ返し、虎徹が小さく笑う。
「ミルクが効いてるな?……眠いんだろ、バニー」
 深くて甘い、とてつもなく優しくて男の色気に満ちた声が、バーナビーの耳に忍ばされる。
 このまま眠ってしまいたいほど心地良いのも本当だが、全身で感じる虎徹の存在に欲望が刺激されているのもまた、事実だ。
「眠くない、です……」
 小さな小さな声でそう返せば、ふ、と笑った空気がバーナビーの鼻先を掠める。
「うーそつけぇ」
「ほんとです……」
 言い返しながらも、語尾は吐息に溶けて混ざり、今にも眠りに引き込まれそうだ。
 そんなバーナビーの右の瞼に、柔らかなものが押し当てられる。次いで、左の瞼の上にも、ゆっくりと。
「……?」
「虎徹スペシャルって言っただろ……」
 左の瞼に唇を淡く触れさせたままに、虎徹がそう囁きを落とす。
 額に口吻け、そして綺麗に通った鼻筋にも、淡いキスを贈る。
 ほとんど眠りの淵に沈みそうなバーナビーの耳に、柔らかな声が忍び込んだ。
「キスも込みで虎徹スペシャルだ……良く眠れるおまじないだぞ……おやすみ、バニー」
 良い夢を、と囁くと、虎徹の腕の中のバーナビーは完全に眠りに落ちたようだ。すうぅ……と深い寝息がその唇から洩れ始める。あどけない寝顔にもうひとつキスを落とし、虎徹はふわりと笑みを浮かべた。
「……おやすみ、バーナビー……」
 彼の中で眠る四歳のバーナビーにもそう囁いて。蜂蜜色の頭をゆるやかに抱き締め直し、虎徹もまた、ゆっくりと両の瞳を閉じた。


 翌朝。心地良い眠りでたっぷりと休息をとったバーナビーが隣で眠る恋人に、朝っぱらから不埒な行為をしかけたりしたのだが。
 それはまた、別のお話である。



20118018 了








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