いかにも高級そうなソファに長々と寝そべるその人物を目にし、綱吉は全身から音を立てて血の気が引いていくのを感じていた。
―――んなぁぁー?!何でこの人がいんのー?!
早くも足がガクガクと震え始め、できる事ならこのまま回れ右をして、遠く日本まで逃走したい気持ちでいっぱいだ。恐怖のせいで鼻水なんかもちょっと出始めている。
そんな綱吉に視線を寄越すでもなく、男はソファの肘掛けに行儀悪く乗せた足を組み替え、悠然と書類を読み続けていた。静かな室内に、男が書類をめくる小さな音だけが響く。
部屋の入り口に突っ立ったまま、抱えたバッグを床に下ろす事もできない綱吉が震えながら視線を彷徨わせていると。
「おいカス。突っ立ってんじゃねぇ。邪魔だ」
「はははいぃぃぃ!」
ソファに寝そべる男から突然に声をかけられた事に驚く綱吉が裏返った声を上げると、それとは反対に、背後から上品な声が静かに呼びかける。
「失礼致します、十代目」
「は、はいっ!」
振り返れば、そこには先ほど綱吉をこの部屋へ案内した初老の紳士の姿。この古く美しいボンゴレ別邸の管理人、いわば執事のような存在らしい彼が、ワゴンを押して後ろに控えていたのだ。入り口に綱吉が突っ立っていれば、それは邪魔というものだろう。
「あ、すみません」
「とんでもございません。失礼致します」
控えめかつ礼儀正しくそう言うと、老紳士はワゴンを押して室内へと進み入った。ソファの傍らのローテーブルに置かれたグラスを下げ、代わりに新しいグラスに琥珀色の液体を注ぐ。もうひとつのグラスには、スライスされたレモンが一切れと、ガス入りの天然水。いかにもよく冷えたその液体がグラスに霜を作る様子をぼうっと眺めていると、老紳士がそのグラスをそっと綱吉の方へ滑らせた。
「十代目、お疲れでございましょう。何か御用がございましたら、何なりとお申し付け下さいませ」
―――何なりとって言うか、この状況を説明してくれよー!
情けない抗議は、頭の中だけ。
静かに一礼して部屋を下がった彼をなす術もなく見送り、綱吉は再びその人物と二人きり、部屋に取り残されていた。書類をめくる小さな音、グラスの氷が融けて立てる、カランという音。綱吉の心の中とは裏腹に、室内はいたって静かだ。このままでは埒が明かないと思い直し、ようやく綱吉が勇気を奮い起こして口を開くと。
「あ、のー……」
「あ"?」
紅い瞳が、初めて綱吉に向けられた。寝そべったまま器用にローテーブルに手を伸ばし、琥珀色の液体の入ったグラスを取り上げる。唇を湿らせるように一口含み、そのまま視線は再び書類へと戻された。
「えーと、久し振り……?ザン、ザス」
「いつまで突っ立ってんだ、てめぇは」
「あ、うん」
言われてようやく、身体が動く。持っていたバッグを床に置き、ザンザスが座っている横方向に置かれた一人掛け用のソファにそろりと身を沈める。先ほどすすめられたガス水を一口飲んで、綱吉はようやく少し落ち着く事ができた。
―――とにかく、何でよりによってザンザスがここにいるのかって問題だよ
綱吉がこの別邸へ来た……いや、そもそもここイタリアへ来たのには理由がある。といっても、ボンゴレで何があったという訳ではない。
一言で言ってしまえば、家光の思いつきだった。
家族サービスというものにまったく無縁だった家光が、綱吉が高校の最高学年になったこの機会に、一緒に旅行に行ってみようなどと言い出したのが事の始まりだ。『父さんの普段の姿を見てみるってのも、親子の語らいに大事な事だと思うぞぅ』と言った時の父の顔付きを思い出し、綱吉はがっくりと肩を落とした。ああいう得意げな顔付きで何かを言い出した時の父は、こちらの意向など関係なしに、必ずと言っていいほど自分の思い通りに事を運ぶのだ。
結局、そのまま引きずられるようにしてイタリア旅行へと連れ出され、当然のようにボンゴレ本部へ連れて行かれ。九代目への挨拶やら何やらを終えると、家光は『ほんとスマン!父さん仕事忙しいから、一人で遊んでてくれな!』と言い残し、綱吉ひとりを置いて急に入った門外顧問の仕事へと出かけてしまったのだった。『そうだ、せっかくイタリア来たんだから、父さんのいない間は観光でもしとけ!大丈夫、通訳とガイドしてくれる奴手配してもらえるように九代目に頼んでおくから。任せとけ任せとけ!お前も知ってる相手に頼むようにしてやるよ』そんなお気楽な父の台詞が脳裏に甦る。
―――知ってる、相手……?
いや、まさか。いくら何でも、それはない。
綱吉はひとり心の中でそう呟き、うんうんと何度も頷く。
きっとたまたまだ。
たまたまザンザスも仕事かヴァカンスでこの地へ来て、この別邸を使っているのだ。そうに違いない。知ってる相手で通訳とガイドをしてくれそうな人物と言ったら、やはりディーノやバジル。普通はそういう人選だ。この人物はあり得ない。
グラス越しにちらりと見やれば、ザンザスは相変わらず気怠げにグラスを傾けながら書類を眺めている。綱吉の方へ視線を寄越す気配は微塵もない。まったくこちらを気にしている様子のないザンザスに、綱吉も少しずつリラックスし始めていた。
―――傷、相変わらず残ってるんだなあ
ぼんやりとその顔を眺めつつ、思うともなしにそんな事を思う。九代目の氷によって残った傷痕と、綱吉が残した傷痕。そして、自身の炎が己が身を貪った傷痕。それらが、厳しく整ったザンザスの顔を縦横に走っている。けれどその傷痕はザンザスを醜く見せる事はなく、ただその容貌の不可思議な魅力を、どこか危うげに助長しているだけだった。
―――何だろう、この感じ
ザンザスと会う時にはいつもこういう気分になる。そう思い、綱吉はグラスの水をもう一口含んだ。
相変わらず、恐怖心があるのは事実だ。
恐怖と、興味と、消す事のできない同情心、そして何ものかよくわからない、名を付ける事のできない感情。そんなものが胸の中に渦巻いて、考えがまとまらなくなるのだ。
顔を見るのも恐ろしいような、それでもその顔を眺めていたいような。自分でもその感情の正体がわからない。綱吉の全てを変えてしまったあの酷い戦いから、数年が経っている。あの戦いに勝ったのは綱吉だというのに、やはり平常時に顔を合わせれば、威圧されてしまうのは綱吉の方で。生きて来た年数も境遇も生きる上での覚悟も、何もかもまったく違うのだから仕方ないと言えば仕方ない事なのではあるが。けれど、どこか悔しい気分になるのもまた、事実だ。
なんとはなしに自分の気持ちを持て余し、綱吉は複雑な気分で手の中のグラスを玩んだ。氷がグラスにぶつかり、涼しげな音を立てる。
「さっきから何ジロジロ見てやがる」
書類に目を注いだままに、ザンザスが無造作に言葉を投げた。どうやら無意識にずっとその顔を眺め続けていたらしいと気付き、綱吉は慌てて視線をそらす。
「え、あの、別に……」
冷や汗をかきつつ、意味の無い言葉を口の中でもごもごと呟けば、ザンザスは不興げにふんと鼻を鳴らす。
「聞こえねぇ」
「いや、あの。何でザンザスがここにいるのかなーって」
「いちゃ悪ぃか」
「いえ、悪くないです。全然」
―――ちょ、やっぱ相変わらず怖ぇーっ!
何この威圧感!何この威圧感!
綱吉はややうつむき気味になりつつ、ソファの上で身を縮めた。
負けた奴が勝った奴の下につくのがファミリーの掟。確か昔、リボーンにそう教わった気がするんだけどな……と遠い眼差しになりつつ、中身が氷だけになったグラスをローテーブルへ戻す。溜息をひとつ落とすと、それを聞きつけたのか、ザンザスの目が書類から綱吉へと移された。
「で?」
「へ?」
間の抜けた声を出すと、常から皺の寄せられたザンザスの眉間が、更に厳しく皺を寄せた。目つきは急速に剣呑さを増していく。
―――何これ悪いのオレーっ?!
何故か機嫌が急降下しているらしいザンザスの気配に、綱吉は冷や汗を流しっぱなしだ。何が『で?』なのかは超直感をもってしてもさっぱりだが、とりあえず口を開いた。自分の状況を説明しておかない事には始まらない。
「あ、あのね。父さんと一緒にイタリアに旅行に来たんだけど……」
「知ってる」
「あ、え?そう……それでね、父さんが仕事になっちゃっ」
「知ってるっつってんだろカスが」
話の進まなさに苛立ったのか、ザンザスは手にした書類をローテーブルへと放り投げ、寝そべっていたソファからようやく身を起こした。しなやかに長い脚が、肘掛けから床へと降ろされる。今まで枕にしていたクッションにどこか気怠げに身を沈め、ゆるりと綱吉に視線を流した。
「で?」
再度の『で?』にも反応できず、綱吉は軽く口を開けたまま固まっていた。
―――何でこの人、オレがここに来たワケ知ってんの?
綱吉がイタリアへ来たのは、一昨日の夜だ。家光に仕事が入り、一人で観光してろと放り出されたのが昨日。
何故その経緯を、ザンザスが知っている?
「あの、まさかと思うけど」
「あ?」
「つ、通訳と……ええと……ガイドって……や、違うよね!」
「らしいな」
あっさりと頷いたザンザスに、綱吉は頭を抱えた。
―――何考えてんだよ父さんと九代目はー!!!!
「ウソでしょーっ?!」
「このオレを観光ガイドに指名たぁ、さすがはボンゴレ十代目だなぁ?」
「ひいぃぃぃ!違いますから!全っ然、指名とかしてませんからオレ!!」
今にも泣き出さんばかりにそう叫ぶと、ザンザスが堪えきれないようにぶはっと噴き出した。
「本気にしてんじゃねぇよカス!」
何がおかしいのか、ザンザスは腹を抱えて笑っている。それをぼんやりと眺めつつ、麻痺した頭で綱吉は、
―――笑ってる顔だけは、いつ見ても無邪気っていうか子供っぽいって言うか……
などと、知られたら憤怒の炎でかき消されそうな事を考えていた。ひとしきり笑い満足したのか、ザンザスは改めてソファに深々と身を沈め、ちらりと片眉を上げてみせる。
「てめぇのお守がオレの仕事だ。クソ忌々しいがな」
「んなーっ?!」
お守って、結局つまりはそういう事じゃんかー!最近少しだけ身に着けて来た落ち着きなどどこかへ吹き飛ばし、綱吉は青ざめた顔のまま、意地悪げに片眉を上げたザンザスの顔を見つめた。この矜持の高い男が、そんな事を了承するとは。
「じじぃと家光に言われたんでな」
片眉を吊り上げたまま、片頬を歪ませてザンザスは放り投げるようにそう言った。
まさか、よりによって。
このザンザスにそんな事を頼むとは。
さすがの綱吉も、開いた口がふさがらない。おそらく、この世で一番綱吉を憎んでいるであろう人物に、その綱吉の面倒を見ろと頼むなんて。さすがはザンザスが『ゆりかご』とリング戦をしでかす原因になった二人だけの事はある。
あの不思議な楽観主義で、将来のボンゴレの表と裏を担う二人を少しでも打ち解けさせようとでも思っているのだろうが。
いかんせん、相手が悪すぎる。
―――だって、ザンザスだよ?
命がけで闘って、更には呪い殺すとまで言われた相手だというのに。ザンザスにしてみても、綱吉は全てを奪い取った憎い相手だというのに。幼い子供がケンカの仲直りをするわけではないのだ。九代目も家光も不思議な事に、ことザンザスに関してはまったく目が見えなくなるようだった。
「よ、よく引き受けてくれたね……」
半ば呆然としながらそう呟くと、ザンザスは舌打ちをする。
「仕方ねえだろ、家光が……」
「父さんが?」
そう問い返せば、もうひとつ舌打ちし。
「……何でもねぇ」
不機嫌そうに顔を逸らし、男はグラスの中身を一息にあおった。反らされた喉元で、嚥下の為に喉仏が動く様子から綱吉は何故か目が離せない。
「ごめんね、嫌だったでしょ」
「聞くまでもねぇだろうが」
「う……」
言葉に詰まる綱吉に、ザンザスは唇を歪めてみせる。柔らかそうな厚い唇がゆるりと開き、意地悪く言葉を紡いだ。
「まあ、てめぇをいつでもぶっ殺せると思えば少しは気が晴れるがな」
「ちょ、ちょっとー!」
半ベソの綱吉に再びぶはっと噴き出し、ローテーブルにゴトリと音立てて、ブーツに包まれた脚を投げ出す。ソファに深々と身を沈め、幾つも重ねたクッションに肘を沈めさせ、ザンザスは頬杖を突いて綱吉を流し見た。
「……で?」
三度目の『で?』は、さすがに綱吉も意味を解して居住まいを正す。結局、自分の為に時間を使わせる事に変わりないのだ。ならば、付き合ってもらおうではないか。ザンザスにとっては、不愉快かつ大いなる時間の無駄かも知れないが。少しずつでも、歩み寄る事はきっと必要なのだろう。
長い付き合いになる事は、おそらく間違いないのだから。
ボンゴレの、光を統べる者と闇を担う者として。
「じゃあ、悪いんだけど。オレ、何もわからないから。付き合ってもらってもいい?」
「貸しはでけぇぞ」
「はは、ツケにしといてよ」
なんとか軽口が叩けるようになった綱吉にザンザスは肩をすくめ、軽く顎をしゃくってみせた。
「酒注げ。んで、さっさと支度しろ」
―――何で命令形だ!
情けなくも、文句は心の中だけで。
言われるままに綱吉はボトルからウイスキーをザンザスのグラスに注ぎ、大急ぎで出かける支度をし始めたのだった。
25/MAY/2007 了
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