ノーノとザンザスのお話。カップリング要素なしです。


Padre!Padre!Padre!





 細いリボンタイを、こどもは鏡の前で幾度も確認する。
 曲がっていないか?
 綺麗に結べているか?
 縦結びになっていないか?
 いじってはまた直し、直してはまたいじる。
 鏡の中に映った顔は緊張のせいかぎこちなく強ばっている。黒い髪に縁取られたそれは、青白くさえ見えるほどに血の気を無くしていた。極度の緊張で、指先が冷える。
 ここからは遠い大広間。気配も声も届くはずのないそこから、大勢の人間の気配が流れ込んでくる。好奇、羨望、嫉妬心、或いは憎しみにさえ近い感情。それらに彩られた空気が、鏡の前に佇むこどもの足元へと絡みついてくるのだ。冷えて粘つくそれは、彼の足をすくませるには充分だった。
 鏡の中の青白い顔に、こどもがつと、己の指を伸ばした時。
 礼儀正しいノックの音が、軽やかに室内に響いた。
 慌てて顔を上げた彼が、返事をためらっていると。扉の外から静かな声がかけられる。
「ザンザス様。よろしいでしょうか?」
「は……い」
「失礼致します」
 小さな返事に応え、重厚な扉が開かれる。そこに立っていたのは、彼の父の秘書をしている若い男だった。扉を開いた男は、そのまま脇へと身を退ける。
「おとうさま……」
 秘書の開けた扉から笑顔で入室して来た初老の紳士の姿に、こどもは肩の力を抜いて小さく呟きを落とす。次いで、つられて微笑んでしまいそうな頬を慌てて引き締め、駆け寄って抱きつきたいと訴える全身を叱咤した。そんな子供っぽい真似をして、父にみっともないと思われでもしたら。
 笑わぬように力を入れて厳しい顔つきをしているザンザスを見て、彼の父は少し困ったような……どこか寂しげな笑みを浮かべた。下がった眉尻が、ますます下がる。
「ザンザス、支度はできたかい?」
「はい、おとうさま」
「タイも綺麗に結べている。良い子だね」
 父に褒められ、ザンザスはほんのりと頬を染めてうつむいた。白い肌に、ようやくうっすらと赤みが差す。
 今日はこれから、ザンザスの誕生日パーティーなのだ。
 彼がこの屋敷に……父親の元へと引き取られて初めて迎える、誕生日。
 盛大に行われる予定のそのパーティーは、つまりは彼のお披露目の意味も兼ねている。
 突然どこかから引き取られた、大ボンゴレ九代目唯一の実子。その子供を内外に正式に紹介する、お披露目式なのだ。
 ザンザスを引き取って半年余り、周囲で飛び交う様々な憶測や幹部達の讒言にも終始一貫して『ザンザスは我が子である』と言い続けていた九代目は、その言葉を更に確かなものにするかのように、パーティーを華やかかつ盛大なものにするよう命じたのだった。
 戸口に控える秘書を振り返り、九代目が目顔で下がるように命じる。一礼して退室したのを見届け、九代目は傍らの椅子に腰を下ろした。
「ザンザス、今日はお前の誕生日だね」
 目元を綻ばせてそう言う父に、ザンザスはどう応えたらいいのかわからず、突っ立ったままでこくりとうなずく。
「お誕生日、おめでとう。お前を産んでくれたお母様と、お前を授けて下さった神様に、感謝しなくては」
「あり、がとう……ございます」
 小さな声でそう言うザンザスを、九代目は己の元へと手招いた。おずおずと近付くこどもの手を取り、そのてのひらへと何かを滑り込ませる。
「……?」
「お誕生日のプレゼントだよ。開けてみなさい」
「プレゼント?」
 きょとんとしているザンザスを見つめ、男は更に目尻のしわを深くした。
「そう、お前にだ」
 柔らかにそう告げられ、こどもは紅い瞳を幾度か瞬いた。ゆっくりと、父の言葉が心に染み込んでくる。

 ザンザスの、誕生日の、プレゼント。
 おとうさまからの、贈り物。

 ふくりとした白い頬が、喜びにふわふわと染まっていく。
 隠しきれない嬉しさに、唇の端がうずうずと動いてしまう。それを必死に押し隠し、ザンザスは上目遣いに父の顔をうかがった。
 目尻のしわを深くした父に無言で促され、手の中の包みを急いで開く。黄金色のリボンを解き、手触りの良い上品な白い紙をそっと開いていく。心は急くけれど、紙を破かないように、そっと、そっと。中から現れた、これもまた白い箱の蓋を慎重に開く。白絹の上に置かれていたものは、艶のある銀細工。丁寧な仕事が見てとれる、一流の品である事は疑いようもない、けれどその中にどこか温かな素朴さを漂わせる一品だ。
 馬蹄の形をしたそれをじっと見つめ、ザンザスは小さく口を開いて瞬きを繰り返した。綺麗に輝くその表面に触ったらば指紋を付けてしまいそうで、ドキドキしながら、ただ、見つめる。
「どうだろう、気に入ったかな?」
 上から降って来たその声に、慌てて顔を上げる。
「あ……」
 ありがとう、嬉しい。すごくすごく気に入ったし、大事に大事にします。おとうさまからの初めての誕生日プレゼントなんだから、こんなに特別なものはありません。
 そう、言いたいのに。
 心の中にはもっともっと沢山の言葉と沢山の感情が溢れているのに、どれひとつとしてザンザスの口から零れてはくれない。言いたい言葉は結局ひとつも音にはならず、こどもは迷うように幾度か口を開け閉めし、最後に諦めたように唇を閉じた。柔らかなそれを、自分自身でキュッと噛みしめる。
 言いたい言葉もうまく出てこない唇なんて、いっそなければいいのにとさえ思いつつ。
 難しい顔になり黙り込んだザンザスを気遣うように、父親はその顔を覗き込んだ。
「どうした?気に入らなかったかね?」
 首を傾げながらのその問いは、親としての自信の無さのあらわれか、不思議なほどに気遣わしげで頼りない。無理もなかろう、『親子』になって、まだ半年ほどだ。その間に顔を合わせる事のできた回数とて、両手で数えて足りてしまう。大組織のトップである彼には、親子水入らずで過ごす時間さえも作り出す事は難しい。同時に、この年まで子供を持った事のない彼にとっては、可愛いという情が湧きはしても、正直な話、どう接すれば良いのか解りかねる部分もあったのだ。
 それはザンザスの方にしても同じ事で。
 故に、互いに戸惑って、どうすれば良いかがわからない。結局互いにぎこちない時間を過ごしてばかりだ。
 そうではなく、もっと自然にと思いはすれど、なかなか思うようには進まない。微妙かつ難儀な問題だ。
 気に入らなかったのか、と問われたザンザスは。弾かれたように顔を上げ、ブンブンと大きく横に振る。
 気に入らないわけがない。
 小さな蹄鉄の形をした、綺麗な綺麗な贈り物。
 ザンザスがそうして見せた事で安心したのか、初老の男はホッとしたように息をついた。
「そうか、良かった……これはね、ザンザス。おまもりだよ」
「おまもり……?」
「そう。昔から言い伝えられている、幸福のおまもりだ。幸せを運んでくる馬の蹄鉄。悪魔を蹴って追い払ってくれる、蹄鉄だよ」
 そう囁き、白絹の上から銀の馬蹄を取り上げる。乾いてしっかりとした男の指の間で、小さなそれは上品に光を弾いた。
「お前を守り、幸福に導くおまもりだ。……傍にいられない時にも、おとうさまがお前を見守っている、その証だよ」
 多忙ゆえに傍にいられない事を、彼とて憐れに思ってはいるのだ。まだまだ母が恋しかろう年頃に、母親と引き離した事も。
 けれど。
 あの母親の傍に置いておく事はできなかった。ボンゴレを守る身としても、ひとりの人間としても。その選択を、男は……ティモッテオは、今でも後悔はしていない。
 ザンザスの薄い手を取り、そのてのひらへと小さな蹄鉄の飾りを乗せる。されるがままに手を取られたこどもは、己の掌中で輝くそれをキュッと握り締め。
「ありがとうございます、おとうさま」
 頬を染め、嬉しさを必死に押し隠した声でそう言ったのだった。
 一応、喜んでくれているようだと見て取り、男の頬も緩む。
「そうだ、今度それと合う鎖も用意しておこう。そうすれば、ペンダントにして身に着ける事もできるだろう?」
 我ながら名案だと言わんばかりに、幾度か頷いて。ザンザスがおずおずと頷くのに、微笑みかけてみせる。
 老いを感じさせながらも大きくしっかりとした父の手が、ザンザスの頭へと伸びる。その動きに一度ビクリとしたザンザスに、ほんの一瞬、男は哀しげな顔になり。次いで、それを隠すように温かな笑顔を作り、その手をそのままこどもの髪へと伸ばした。
 柔らかな黒髪の上、乾いた大きなてのひらが、そっとそこを撫でる。その中指には、水色に澄んだ石のはめ込まれた大振りの指輪。彼の力を象徴する、大切な指輪だ。大勢の人間がそこに口吻け、おとうさまへの忠誠を誓うのだと、ザンザスは教育係に教えられた。その指輪と一緒に、父の乾いた大きな手が、ザンザスの髪を、丸い額を、優しく撫でていく。
 目を上げれば、柔らかに細められた目元と、口髭の向こうで微笑む唇。何も心配はないのだ、ここにはザンザスを殴るような人間はいないのだと、教えるように。
 その顔に、心から安堵して。
 髪を撫でる父の手に、こどもは身を委ねる。
 わずかに緊張の解けたその様子を見て、男はゆるやかに口を開いた。
「さあ、パーティーに行こうか、ザンザス。皆、お前が来るのを待ちわびている事だろう。おとうさまに、お前の自慢をさせておくれ?」
 そうして、肘掛け椅子からゆっくりと立ち上がる。必要だから、ではなくお洒落の為に持っているステッキで、軽く床を叩いて。父親を見上げるザンザスに、いたずらっぽく笑ってみせた。派手好きではないがお洒落な紳士である彼は、ステッキを持っているのとは反対側の手を、そっとザンザスに差し出す。
「さあ、ザンザス」
 乾いて大きな、父親の手。
 たったひとつ、ザンザスのより所である、大切な。
 ボンゴレを統べる、王者の手。
 差し出されたそれに、ザンザスは己の小さなてのひらをそっと滑り込ませた。
「はい、おとうさま」
 その小さな小さな返事は、父の耳に届いていたかどうか、わからなかったけれど。







 はい、おとうさま。
 幼い声が、そう囁く。
 おかしい。自分の声はこんなにか細く頼りなく、高い音ではないはずだ。
 そう思ったところで、ザンザスは不意に目を覚ました。
 夢と現の狭間を、ほんのわずかさまよう。
 視界に映るものは、白く高い天井。
 鼻孔をくすぐるものは、消毒薬や薬品特有の冷たい匂い。
 耳に忍び込むのは、計器が立てる機械的な音だけだ。

 ――ド畜生が……

 声にもならぬ呟きを落とし、ザンザスは己の現状を呪う。ボンゴレ直営の病院、その一室で未だ治療を受けている最中なのだと、思い出し。
 指輪戦に敗北し、すべてを失った彼が運び込まれたのは、並盛の病院。そこで施された応急処置だけで、間に合うはずもなく。更には、再度の謀反を起こした彼らへの監視が並盛に於いては困難である事から、ザンザス以下ヴァリアー幹部の面々は、厳重な監視の元、専用機を使いここイタリア本国へ送り返された。そしてそれからずっと、この病院で治療を受けているのだ。

 ――体の良い牢獄だな

 ボンゴレ幹部達からの処分が決まるまで彼らを捕らえておく為の、清潔で堅牢な、白い牢獄。
 己の左腕に射し込まれている点滴を、ザンザスは忌々しげに見やる。
 忌々しい。
 腹立たしい。
 本当ならば、引きちぎってしまいたいところだ。
 けれど実際、この点滴や高濃度酸素治療による体組織の回復などが為されなければ、急性期を過ぎたとは言えザンザスは生きてはいられまい。何しろ現状、自力で立ち上がる事すらも困難なのだ。一日の大半を、体力回復の為に眠って過ごさざるを得ないほどに、憔悴しきっている。
 二度に渡りその身に受けた、零地点突破。
 八年もの歳月の、永い永い眠り。
 何よりも、指輪による拒絶が、彼の全身を喰い荒らしている。臓器、血管、細胞の隅々に至るまで。
 生きているのが不思議だと自嘲気味に思い、見るものとて無い室内に、ザンザスが視線を巡らせた時。
 病室の扉の外、良く知る気配が三つ。押し問答とまではいかぬ、けれど圧力と拒絶と静かな怒りを漂わせ、戸口の外で言葉を交わしている。
 ここへ入院してから幾度か経験したそれに、ため息をひとつ。
 またか……という気持ちと、ある種の諦観がザンザスの胸をよぎる。先刻の夢はこのせいかとも思われ、胸の奥、どこかがチリリと痛んだ。枕元に備えられたマイクに指を伸ばし、小さく一言、命を下す。
「おいカス。通せ」
 そのままマイクを切ると、数秒の後、病室の扉が外から静かに開かれた。
 自らも未だに全身を包帯で覆われ、車椅子での生活を余儀なくされているスクアーロが、扉の脇に控えている。そんな状態でさえも彼は、一日の大半をザンザスの病室の警護に費やしているのだ。
 そんなスクアーロの傍らに、こちらは既にわずかに包帯を残しているのみとなった、レヴィが佇んでいる。
 本日の病室の警護はこの二人、というよりは。互いに相手にこの役目を譲りたくなくて、張り合っていたのだろう。ある意味、本当に似たもの同士だ。
 そんな彼らが今にも牙を剥きそうな顔つきで、けれど致し方なく病室へと通した、客人は。
「ザンザス……」
 その声に、ザンザスの眉がピクリと動く。彼がここへ入院……いや、『幽閉』されてから既に数度、この客人はこうして彼の元へと会いに来ている。処分を下しにか、今度こそ自らの手で殺す為にかと半ば投げやりに考えていたザンザスに、ただ顔を見に来たのだと、そう言って。
「ザンザス、今日の体調はどうだい?」
 車椅子が動く音と共に、穏やかな声が近づいて来る。

 ――最悪に決まってんだろうが

 心の中だけでそう答えを返し、ただ天井の白さを瞳に刻み込む。
 最悪だ。
 まったく、最悪だ。
 何もかもが、最悪だと。そう、吐き捨てたい気分だった。
 すぐ近くまで気配が近づいたのを感じ、ザンザスはギュッとひとつ、目を閉じる。目を開き、少し視線をずらしたならば、義父の顔が目に入るだろう。二度、殺そうと試み、そして二度ともに願いの叶わなかった、その相手の顔が。
 怒りでもなく、哀しみでもなく、ただ胸の内を風が吹き抜けていくような空虚さがザンザスの全身を満たしている。あの日、指輪戦ですべてを失った、その時から。
 殺して、しまいたかった。
 信じていたものすべてが嘘なのならば。
 たったひとり、ザンザスのより所であったその人が、偽りだけを並べていたのだとしたら。
 ……殺さずには、いられなかった。

 けれど、それは叶う事なく。ザンザス自身もまた、未だ命を奪われる事なく生きながらえている。望むと望まざるとに関わらず。
 医療用にしては随分と寝心地の良い寝台の上、ザンザスは小さく身じろぎをした。
「ザンザス」
 再び、名を呼ばれる。
 すぐ傍らにあるその気配に、男はゆっくりと瞼を開いた。既に幾度か経験しているものの、どうしても慣れる事はない。己が憎んで憎んで、この手にかけようとした義父と、こうして向かい合うという事に。
 罪悪感、だとか。
 後悔、だとか。
 そういった、わかりやすい理由ではないのだ。
 ……ただ、苦しい。
 この胸が、苦しいと訴える。
 そんな胸苦しさに苛まれつつ、ザンザスは紅い瞳を静かに流した。起こそうとした上体は、義父の手で止められてしまう。いつもの事ではあるが、ザンザスの身を案じての事なのだろう。……恐らくは。
 九代目とて、未だ車椅子から立ち上がる事はできない身だ。袖口から覗く細く枯れた腕には、点滴用の針が置かれたまま。こうしてザンザスに会いに来る事ができる時は、よほど体調が良い時だけなのだと、ザンザスも知っている。
「今日はね、ザンザス。お前に渡したいものがあって、来たんだよ」
 夢の中で聞いたのと変わらぬ、柔らかな声音。

 ――……毒を飲めとでも言う気か

 どこか投げやりにザンザスは考える。今更、何を言われたとて驚きはしない。目の前で毒を飲んで死んでみせろと言われても、それが下された処分ならば従うまでだ。この上、この世に未練など残ってはいない。
 答えを返さぬままに、老いた義父の顔を眺めていると。
 男は、膝に置いていた小さな箱を取り上げ、その中身を大切そうに取り出した。
 現れたのは、大振りの指輪がひとつ。側面に見事な彫金が施された、年代を経た物のみが持つ美しさをたたえた指輪。
「……?」
 無論、ボンゴレリングであるはずもない。不思議そうに己の顔を見上げるザンザスを見つめ返し、九代目が呟きを落とす。
「お前の、十六の誕生日に……贈ろうと思っていたのだよ」
 十六の誕生日。
 それを迎える直前に、ザンザスは『揺りかご』を……あの謀反を起こしたのだ。十六歳、それはこのイタリアで、ある意味においては大人の仲間入りをする年齢だ。
 九代目の瞳が、皺深いまぶたの奥から、どこか哀しげな光を投げかけている。そこに宿されているものは、後悔なのか、憐憫なのか、或いはまったく違う何かか。
「これは、私が十六の歳に、私の父から贈られたものでね。……お前に、譲ろうと思っていた。お前は……私の、たったひとりの息子なのだから」
 その言葉に、ザンザスの眉がかすかに動く。唇だけは、幼いあの日のように、強く強く引き結んだままで。
「何を言っても、すべては今更だという事は承知しているよ。だが……知っておいて欲しいのだよ。お前が十六になったら、本当の事を教えるつもりだった。無論、それでは遅すぎたのだろう。本来ならばもっと早くに、きちんとお前に告げておくべきだったのだ。だが……」
 苦渋を吐き出すように長い吐息をつき、老人は話を続ける。
「それを知った時、お前がどんな気持ちになるのか。それを思うと私は恐ろしかった。どれほど哀しませる事になるのか。私を父と呼んではくれなくなるのか。……それが、恐ろしかったのだよ」
 身勝手な話だろう、と自嘲気味に呟く義父の姿を眺め、ザンザスはただ眉間のしわを深くする。
 まったく、勝手だ。
 身勝手もいいところだ。
 くたばれ、と吐き捨ててやりたいのに、その言葉は喉の奥に貼り付いたまま、唇から零れては来ない。ただ胸の底に冷たく重く滑り落ち、そこを痛ませてザンザス自身を苦しめる。
「すべては、私の弱さが招いた事だ……。ザンザス。辛い思いを……させたね」
 唇から押し出すように、神に懺悔でもするかのように苦い響きでそう言葉を落とし、九代目は沈黙する。ザンザスもまた、何か言葉を返すわけでもなく、ただじっと義父に視線を注いだまま。
 室内には、再び計器の立てる機械的な音だけが落ちる。

 返す言葉も、まだ紡ぐべき言葉も、あるのだろう。
 けれど今はどちらも音にはならず、互いの心の中、形を成さずに漂っては渦を巻いているだけだ。
 ザンザスの引き結ばれた唇がほんの一瞬解け、次いでギュッと噛みしめられる。叫び出したいのを、喚き散らしたいのを堪えるかのように。己自身、どうしたいのかさえもわからない。
 ザンザスからの答えを諦めたのか、或いは答えがない事など最初から承知の上だったのか、九代目がそっとザンザスへと手を伸ばす。先ほど示した指輪を、寝台の上に投げ出されたままのザンザスのてのひらに滑り込ませて。
「とても……とても遅くなったけれど。誕生日おめでとう、ザンザス。受け取っておくれ」
 我が、息子。
 その囁きは、聞き間違いかと思うほどに小さく掠れた響きだったけれど。否、或いはそれは本当にザンザスの……聞き間違いであったのかも、しれないが。
 哀しみとも慈愛ともつかぬ不思議な表情で、義父はザンザスを見つめる。指輪を握らせた手を、年老いて乾いたその両の手で包み込み。
「……また、顔を見に来るよ」
 その言葉と、車椅子の音を病室に残して九代目は静かに出ていった。扉からチラリと見えた部下ふたりは、心得たように入室はせずに外で待機している。あの男と顔を合わせた後に、ザンザスの心にどれほどの嵐が吹き荒れるのか。痛いほどに感じ取っているからだろう。
 寝台に横たわったまま、ザンザスは手の中の指輪を、砕けんばかりに握りしめる。
「クソジジイ……っ!」
 唇の狭間から押し出された声は、呪いのように低く嗄れていて。どうにもできないほどの傷を孕んで、血を流しているようだった。

 ――こんなもん……

 こんなものが欲しかったのではないと唇を噛み、ただ、宙を見据える。

 ――ジジイが父親からもらった指輪だ?ふざけんじゃねぇ……

 たったひとりの私の息子だ、などと。
 そんな甘い言葉など、結局は口先だけの偽りとわかっているのに。幼い時からずっと、あの男はザンザスを欺き、偽り続けていたのだから。ザンザスの心を、裏切り続けていた男なのだから。
 ……けれど。
 だけれども。

 ――ふざけんな……!

 ふざけるな、冗談じゃないと思いながらも、ザンザスの手がその指輪を放り捨てる事はない。砕けるほどに、てのひらから血が流れるほどに握りしめてはいても、燃やす事はしない。
 できる、はずもない。
 ザンザスが欲しかった指輪は、これではない、それなのに。

 彼が欲しかったのは、大空のボンゴレリング。
 力の象徴。
 おとうさまが頭を撫でて下さった、その手に輝いていた、あの指輪。
 彼のおとうさまが王者である、その証。
 それなのにあの指輪は、ザンザスのものでは、ないのだ。誰よりも強くて誰よりも素晴らしいおとうさまが、いつかザンザスに与えて下さるはずだったのに。
そう、信じていたのに。

 指輪を握りしめた拳を、男は額に当てた。かすかに震えているのは、沸き上がる怒りによるものか、或いは胸の底に横たわる哀しみの為か。

 ――……畜生……

「畜生……ふざけんじゃねぇ……」
 呻くように、声を絞り出す。
 幼い日に輝いていたあの銀の蹄鉄は、ザンザスに幸福など運んで来てはくれなかった。この指輪もまた、彼に力をもたらす事などないだろう。
 わかっている。
 わかっては、いるのだ。
 けれど。
「ふざけんな……クソジジイ……ッ!」
 いつだって、義父と彼の思いはすれ違い、まともに互いに伝わる事などあり得ない。思いを伝える術を知っていたならば、こんなにも傷だらけになる事など、なかっただろうに。
 どうしようもなく不器用な、そんな哀しいところばかりが似ているのだ。
 指輪を握りしめた拳で、己の額を打つ。
 胸が、痛かった。
 痛くて苦しくて、ザンザス自身にもどうにもできはしない。
「クソジジイ……クソジジイ……クソジジイ……ッ!」
 欲しいものはこれではないと、喘ぐようにそう思う。
 欲しいのは、慈悲ではない。
 憐れみでもない。
 ならば何かと問われても、ザンザスには答える事などできはしなかったであろうが。
 これではないと思いながらも、ザンザスには決して手放す事はできないのだ。
 この、指輪も。
 義父の、言葉も。

 胸の奥、絶え間なく痛む場所で、こどもが銀の蹄鉄を握りしめている。こどもの呼ぶ名は、ただひとつ。

 おとうさま!おとうさま!おとうさま!

 ただ、それひとつだけ。
 こどもの、たったひとつのより所。
 それひとつ、だけなのだ。



2/FEB/2009 了








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