幻騎士→γ→ユニ母


non ora




 半ば朽ちかけたかのような屋敷の内は、常にはない奇妙な静けさをたたえている。騒ぐ者もなく、けれど空気だけがざわつくような、どこか落ち着かぬ気配。
 主を失った哀しみと新しい主を迎えた喜びとの狭間で戸惑うファミリーの人間達の感情そのままに、落ち着かず浮き足立っている。
 その古びた屋敷の内、人のあまり出入りせぬ一室で、男は独り、グラスを傾けていた。
 柔らかな金の髪がひと筋ふた筋と額に落ちかかるのを鬱陶しげにかき上げ、長いため息をひとつ。常から癖のように刻まれている眉間のしわが、その容貌に男臭く悩ましげな色を添えていた。
 スプリングの軋む年代物のソファに深く身を沈め、γはもの憂くグラスを唇に運ぶ。決して美味そうにではなく、ただ、流し込むように。けれど、さすがにボトルから直接飲む気分でもないようで。
 眇めた瞳でどこか遠くを見つめながら、ひと口、ふた口。すっきりと鼻に抜ける杜松の実の香りがする、透明な蒸留酒で喉を焼く。逝ってしまった大切な人と共に傾けた、その酒を。
 痛みを麻痺させるかのように、喉の奥へと流し込んで。片手で顔を覆い、耐えきれぬように震える声で小さな呟きを落とす。
「……ボス」
 まぶたをちらつくのは、守り抜く事のできなかった大切な主の姿だ。新しいボスであるユニに心慰められはしても、痛む傷口は血を流し続けている。心を捧げたただひとりの相手の突然の死は、どうしようもなくγの心を蝕んでいた。

 ――どうしてあんたが、こんなにも早く……

 逝って、しまったのかと。
 何故、傍にいなかったのかと。
 零れ落ちる砂粒のように儚く消えてしまったその人を思い、顔を覆う片手がぐしゃりと己の髪を掴んだ、その時。
 立て付けの悪い古い扉が、軋みを上げて開かれた。
 目だけを上げてそちらを見やれば、戸口に佇んでいるのはよく見慣れた姿。しなやかに鍛え上げられた長躯に、腰に差した特徴的な四本の剣。
「……幻騎士」
 常と変わらぬ無表情のまま、幻騎士は座るγにちらりと視線をよこし、音も無く室内へと入って来た。扉の軋みがなければ、空気さえも動かぬかのように静かなその気配に気付く事もないかも知れない。
 棚からグラスを取り出し、黒髪の男は流れるような仕草で振り返った。そのまま、己の動きを目で追っているγの向かいへと腰を降ろし。
「一杯もらうぞ」
 ローテーブルの上のボトルへ、つと手を伸ばす。
「珍しいじゃねーか」
「……たまには、な」
 抑揚のない口調でそう返し、幻騎士は透明な酒を満たしたグラスを軽く掲げてみせた。γもまた、無言でそれに返す。

 ――ボスに

 互いに、口に出さずともわかっている。
 彼らの亡きボスに捧げる盃だ。
 ほんのひと時、視線と視線を絡ませ合い、また、ゆるりと伏せる。
 言葉を交わすでもなく、男達は二人、ただ静かにグラスを傾けていた。氷も入れずストレートで唇に運んでいる酒は、音を立てる事もなく。ただ唇の粘膜と喉を灼いては、胃の腑に熱く染み渡る。酔いともつかぬ酔いが、内臓からゆるりと全身に熱を運んだ。
 古い柱時計の秒針が刻む音だけが、室内に降り積もっていく、その中に。
 カタリ。
 干したグラスをローテーブルへと置く小さな音が、やけに大きく響いた。グラスを置いたγの指先に、次いでその顔に、幻騎士は視線を滑らせて。ぽつり、口を開く。
「眠らぬと、身体に毒だ」
「……まだガキも起きてるような時間だぜ」
 片目を眇めて茶化すようにそう返すγに、男は静かに首を振ってみせた。
「そうではない。……眠って、いないのだろう」
 その言葉に、γは常に寄せられた眉間のしわを更に深くする。しばし幻騎士の瞳を見つめ、やがて諦めたように嘆息すると、軽く瞳を伏せた。
 肩をすくめ、グラスに新しく酒を注ぐと、ふわり、酒が香り立つ。鼻腔をくすぐる透明のそれ、手にしたグラスの酒を見つめ、γはそこに誰かが映っているかのように苦く笑った。
「……眠れるわけが……ねえ……」
 唇から零れたのは、弟達の前では決して口に出さない、そんな弱音だ。苦い笑みをたたえた目元には、隠しようもない嘆きと、己自身への憤りがにじんでいる。
「無理もあるまい。まして、おまえの嘆きは誰より深かろう。……だが」
 幻騎士は、そこで言葉を切る。
 そう。その嘆きは、おそらく誰よりも深いのだろう。ボスを失った片腕、というだけではない。同時に、想いを捧げた相手を失ったのだ。その苦痛はいかばかりかと、幻騎士は思う。
 そして、そんな男の胸もまた、痛みを訴えていた。
 ただひとりの主を亡くした、喪失感。けれどそれと同時に、焦燥にも似た熱がじりじりと胸を灼く。亡きボスへ寄せていた信頼、尊敬、忠誠、それらで痛む心の片隅で、何かがくすぶるような熱を持っているのだ。
 ……それはどこか、嫉妬にも似て。
 その言葉の意味に思い当たり、幻騎士はかすかに眉を寄せた。
 あってはならない。
 そんな事が、あってはならないのだ。
 己の思いを打ち消すように、ひとつ、ゆっくりと瞬きをする。
「……だが、我々はこれからユニ様を命がけでお守りせねばならん。いつ、いかなる時も」
「おまえに言われるまでもねぇ。百も承知だ」
「ならば、今の己に必要な事を考えるのだな」
 幻騎士は読めない表情のまま、静かにグラスを傾けた。伏し目になった男の顔を、γはきつく睨み据え。
「……説教か」
 苛ついたように、そう言い放つ。その言葉に動じた気配もなく、幻騎士は手の中のグラスをローテーブルへと置いた。
「そうではない」
 わかって、いるのだろう。
 まっすぐにそう返す男の顔をしばし見つめ返し、γは悔しげに舌打ちをした。常から表情の読めない幻騎士ではあるが、長い付き合いだ。γとて、これが感じ取れぬほど愚鈍ではない。
「ザマァねえ……おまえに心配されるなんてな、このオレが」
 けれど悔しげな言葉とは裏腹に、幻騎士を見るその顔は、ほんのわずか綻んでいて。瞳だけが『心配をかけてすまない』と、そう告げていた。
 言葉にはならぬその言葉を、幻騎士はゆっくりと瞬く事で受け入れた。
 流れるのは、ほんの少しだけ穏やかな空気。
 ささくれた心の表面が、わずかだけれども撫で付けられたような、そんな心地にγが目を細めた、その時。
 不意に、言いようのない眠気が彼を襲う。我知らず小さな欠伸が零れ、気が緩んだのかと男は目元を擦った。
「何だ……?言われたそばからコレかよ……」
「眠るなら部屋へ戻れ、γ」
「ん……いい、めんど……くせ……」
 口を開くのも億劫げにそこまで呟き、γのまぶたがゆっくりと閉じた。
 数日分の疲れが一気に出たのか、吸い込まれるように眠りに落ちる。
 力を失ったその手からグラスが滑り落ちそうになるのを、幻騎士は素早い動きで一滴の酒を零す事もなくつかみ取り。そっと、卓上へとそれを置く。
「……本当ならば『雨』の力が良いのだろうがな」
 すぅ、と小さく寝息を立てるγの白い顔に向け、ひとり言のようにそう呟く。『霧』の幻覚作用を使い、ゆるやかな眠りへと導いてはみたが、本来は『雨』の鎮静作用の方がより効果が高く、γへの負担も軽いであろう事は、幻騎士も承知していた。
 けれど。
 眠らぬ……否、眠れぬ、夜よりは。
 せめて、ほんのわずか、夢の中だけでも心穏やかなひと時を。
 たとえそれが、まやかしに過ぎなくとも。
 どこか苦くそう思いながら、幻騎士は眠る男の整った顔を眺めた。座ったままの姿勢で眠るその身体を、スプリングのきかぬソファへそっと横たえる。
 起きる気配もなくゆるやかな寝息を吐き出す唇を、視線だけでゆっくりとなぞって。
 触れてしまいたい衝動を堪えるように己の唇を噛み締め、男はそっと瞳を閉じた。
 耳に忍び込む規則正しい寝息に、鼻腔をくすぐる酒に混じったγ自身の匂いに、身の内で凶暴にざわめく何かがある。それから目を逸らすように、小さくかぶりを振って。
 傍らから取り出した薄手の毛布を身体に掛けてやり、幻騎士は静かにその寝顔を見下ろした。
 先代ボスの突然の死。
 ジェッソファミリーから執拗に繰り返される襲撃。
 新しくボスの座に就いた主は、未だ幼く。
 おそらく先代の死を知れば、白蘭からの陰湿な攻撃は、ますます激しさを増すだろう。
 無表情にγの寝顔を見下ろしたまま、幻騎士は己の思考の中をゆらゆらと彷徨っていた。

 ――そう遠くない先だ

 遠くない未来、おそらく己は『それ』をするだろう、と。
 主を、ファミリーを、大切な全てを守る為に。
 敵をあざむき、味方をあざむき、己の心さえもあざむいて。
 どれほどの苦痛かは知れず、またどれほどの月日がかかるのか、それすらもわからなかった。けれど。そうせねばならぬのだと、それだけはわかっている。

 ――他の誰にもできぬ……否、させられは、せぬ

 真実に潜む嘘。嘘に潜ませる真実。
 それこそが霧。霧の、役割。
 己にしか為す事のできぬ、己に定められた宿命なのだから。
 そう、確かめるように思いながら、ゆっくりと右の手袋を外す。指を伸ばし、眠るγの前髪、その柔らかな金糸に指先だけで触れて。
 吐息さえも零さず、ただ唇の動きだけで、眠る男の名を呼ぶ。
 閉ざされたまぶた、それを縁取る黄金の睫毛。すっきりと男らしい頬のライン。かすかに開き、規則正しい寝息を零す、唇。
 触れる事はせず、視線の動きだけでそれらの造形をなぞって。
 ひとつ、深く瞳を閉じる。まぶたに刻み付けるかのように。

 ……そう。『それ』を、するのだろう。
 己の想いからも目を背け。
 大切なもの全て、憎むべきもの全て、何もかもをあざむきながら。

 思いつつ、幻騎士は眠るγの前髪に触れた指先に、静かに唇を寄せる。

 ――そう、遠くない先

 けれど。
 それまではまだしばし、このひと時の平穏を。
 ……たとえそれが、まやかしに過ぎなくとも。


22/JUN/2008 了




幻騎士→γ初書き。
言葉を飲んで、己の指を握り込んで、ただ、見つめる。
そんな幻騎士が好きです。
そんなじゃない幻騎士も大好きです。



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