カラン。
グラスの中の氷が、融けて小さな音を立てる。澄んだその音にふと我に返り、スクアーロは灰銀の瞳を瞬いた。
ヴァリアー本部内に割り当てられた、幹部の私室。その部屋にある小さなテーブルに片肘をつき、男はぼんやりと目の前のグラスを眺めていた。見事なカットを施されたロックグラスは、特に彼の趣味というわけではない。ただ、店先に並べられたそれを見た時に、ふと主の姿が頭をよぎったから買ったというだけのものだ。自分にはこのグラスの価値など金額そのものとしてしか理解できないが、きっと彼ならばその美しさの意味も存在の価値も、わかるのだろうと。
そんな事を思って買った、一対のグラス。
今はその中を、琥珀色の酒で満たしている。
グラスの表面に浮いた水滴を指先で辿り、スクアーロはそのまま己のグラスを持ち上げた。気付けば、時計の針は零時を回っている。日付が、変わっていた。
「もう、十日になってるじゃねぇかぁ」
らしくない小さな呟き声に、返る言葉はない。そんな事は最初から承知で、男は唇に淡い微笑を灯した。
テーブルの上、己のグラスと対になっている、主のグラスに向かってそれを掲げる。
「誕生日おめでとう、ボス」
グラスの表面の水滴が、静かにテーブルへと伝って落ちた。
祝われるべき主の姿は、ここにはない。
スクアーロが、彼を守れず失ってから、随分と月日が経つ。待ち続けるその日々を数えずにいられぬように、年に一度訪れる、ただ一人の主の生まれた記念日を、スクアーロは忘れる事などできない。プレゼントともつかぬ記念品を用意して、主の好んだ酒を用意して、ただその時を過ごしてしまうのだ。
女々しいのは承知の上。
それでも、グラスを二つ用意して、その双方に酒を注ぎ。
そこにはいない主に、祝いの言葉を。
来年こそは、主その人に祝いを言いたい、言えるはずだとそう信じて、酒を干す。用意し続けたプレゼントは、今年で七個目を数えた。主に会ったからと言って、本当に渡すつもりがあるわけでもない。まして、こんなものを本当に主が喜ぶとも思えない。彼が真実欲し、望むものはただひとつだけなのだから。
今年も受け取る相手のいない包みをテーブルに転がし、スクアーロは酒をあおった。
氷で冷やされた冷たい酒は、けれど熱く喉を灼く。
それはスクアーロの思いの熱さに似ているのか、或いは守れなかった誓いが熱く苦く喉を灼くのか。己自身でもわからぬままに、男はひとり、酒をあおり続ける。
主の好んだ琥珀の酒。
再びこの酒を、共に口にする事ができるだろうかと考えて、スクアーロは小さく首を振った。
迷いは毒だ。
そんなものは、必要ない。
ただ、信じていればいい。主は必ず彼の元へ帰って来るのだと。
そうでなければ、生きている意味などどこにあるのだろうか。
あの苛烈な魂、それこそがスクアーロの生きる意味。生まれた理由。
今度こそは失敗などしない。決してあの手を離す事はない。必ず主の望みを叶え、傍らに付き従って、共に生きて行くのだ。
灼熱の炎の冠を戴く、あの男と共に。
琥珀の酒で湿った唇を笑みの形に歪めたスクアーロの顔に、ゆらりと影が差す。燭台に灯された火に、季節外れの羽虫が一匹、吸い込まれ燃え上がって消えた。それを眺める灰銀の瞳が、ゆったりと瞬きを繰り返す。映り込んだ火が、ゆらゆらと揺れて。
渡す相手のいない贈り物は、今年で七つ。
……主は未だ、目覚めない。
9/OCT/2007 了
|