数年後のスクザン。


鎮守の帳




 執務室の扉に、ノックを二回。
 返事も気配もないのを確かめ、スクアーロは重厚な扉を開いた。案の定、室内に目的の男の姿はない。

 ―――奥かぁ、それじゃ

 迷いなく足を進め、奥の間へと続く扉へ手を掛ける。
「う"ぉい、ボスさん。こっちかぁ?」
 答えが返らぬのを承知でそう問いながら、部屋へと足を踏み入れると。
 さぁ、と冷たい空気が肌に押し寄せる。
 濃密な、水の匂い。
 混じる、濡れた土と緑の匂い。
 外気と変わらぬそれに眉をしかめ、スクアーロは己が主を気遣わしげに見やった。
「う"お"ぉいボス、雨が入るだろぉ」
 窓閉めろよ、と言葉を続け、大股に窓へと歩み寄る。高い天井近くまでの大きな窓は、雨だというのに開け放されたまま。舞い込む雨に、毛足の長い絨毯が濡れるのもお構いなしだ。
「……閉めるな」
 低く厳かな、王者に相応しい声音が静かに命を下す。その声に足を止め、男は困ったように振り返った。
「んな事言ってもよぉ……湿気は傷に障るだろぉ」
「構わねぇ」
 傷は痛む。けれど、痛みなど構わないと。
 言葉に含まれたその意味を正確に汲み取り、スクアーロはますます困惑したように主の顔を見つめた。
 灯りと言えば傍らのテーブルに置かれた燭台からの柔らかな光だけ。それが照らし出すザンザスの姿は、何かが身の内で荒れ狂っている時特有の奇妙な静けさをたたえていた。豪奢な椅子に深く腰掛け、酒のグラスを傾けているのは常と変わらず。
 だがしかし、眼差しの危うさが。
 燃え盛る炎のごとき強さをたたえた常と異なり、言うなれば暮れ行く夕陽の最後の一条のような。
 安定を欠いたその美しさは、スクアーロを魅入らせつつも、ひどく不安な心地にさせた。
「あ……雨でも、眺めたい気分なのかぁ?ボス」
 からかうように言うつもりだった言葉が、かすかに詰まる。するりと出ずに喉に絡まった声に答えるでもなく、ザンザスはどこか遠くを眺めるような風情でグラスを傾けていた。
 指輪を賭けたあの戦いから、いくつの季節が流れただろう。ザンザスの身体に新たに付けられた傷を治すには十分な。けれど、その魂に刻まれた疵を癒すには、少しも足りる事のない、そんな長さの時間が。
「どうしたんだぁ、ボス」
「うるせぇカス」
 燭台の灯りにほの明るく照らし出されたザンザスの顔には、縦横に走る古傷。厳しく整ったその容貌を、損なうどころかむしろ引き立てるかのようなそれを見つめつつ、スクアーロは吐息をついた。
 表面的な傷は治ったものの、長きに渡る冷凍睡眠のせいで蝕まれた内臓や身体機能そのものは、未だに不調を訴えるようだ。更には、ザンザス自身の、炎が。外へ怒りを噴き出させず、身の内を舐めるようにじりじりと焦がしていくのだ。あの指輪戦以後、そんな事が時折、ある。何に対しての怒りなのか、それはスクアーロにはわからない。否、わかってはいるが、わかりたく、ないのだ。怒りだけでなく、どこかに苦しみのようなものを潜ませたそれが、スクアーロの目には酷く辛く映り。本来ならばこれは、哀しみという名を付けられるべき感情なのではないかと、そう思いさえする。
 眉間にしわを寄せたまま酒を飲み続ける男の姿を、スクアーロがただ静かに眺めていると。
「来い」
 雨音に紛れる事もなく、耳へと届く低い声音。
 それに従わぬ理由などスクアーロには欠片もなく。男は長い銀髪をさらりと流して主の元へと歩み寄った。淡い灯りに浮かび上がるザンザスの瞳が、静かにスクアーロを見上げている。紅い瞳は酔いに絡めとられたかとろりと潤み、そしておそらくは、身の内の焔に焼かれる痛みを隠しているに違いない。

 ―――こんなのは、違うだろぉ……

 スクアーロが憧れ、魂ごと鷲掴みにされた、ザンザスの炎は。
 常に表へと噴き出し、何者かに向けられてきた。いっそ、その熱に焼き焦がされたいとさえ願うほど、熱く、鋭く、全てを消し尽くす比類なき炎。
 それが、彼自身を焼く日が来るなんて。
 身の内を、炎の舌持つ蛇に這いずり回られるようだと。
 うわごとのようにザンザスが呟いた言葉を、スクアーロは忘れる事ができない。
 夕陽の色した瞳が気怠げに瞬き、ゆるりと唇を開いた。
「部屋の中にも降る雨、か」
 骨張った形の良いザンザスの手が伸ばされ、流れるように零れ落ちるスクアーロの髪に触れる。腰を越す銀糸の手触りを楽しむように指を通す、そんな姿は常ならば決して見られない類いのもので。
「う"お"ぉぉいどうしたぁ、ほんとにおかしいぞぉ」
「黙れ」
 言葉と共に髪をきつく掴み、そのまま強く引き寄せる。頭皮を引きつらせる痛みに顔をしかめながらも、スクアーロは引かれるままに、座るザンザスの上へと身を屈めた。掴まれていない髪が、雪崩れるようにザンザスの頭上へ降り注ぎ銀色の帳を作り出す。
「降れよ、カス。焼けそうだ……熱ぃ」
「う"ぉいボス……飲み過ぎだぁ、もうやめとけぇ」
 身を屈めて間近で見つめ合えば、ザンザスの吐息からはとろりと甘く芳醇なブランデーの香り。どれほど飲んだのか、随分と濃く強いその香りに、スクアーロは気遣わしげに眉を寄せた。雨だというのに窓を開け放していたのは、身を焼く焔が熱くてたまらないせいだったのか、それとも単にいつもの気まぐれなのか。髪を掴んでいない方の手に握られたグラスを、その手から取り上げようと指を伸ばす。
「指図するんじゃねぇ」
 地を這うような低い声がそう返し、紅い瞳が剣呑な光を帯びる。取り上げられそうになったグラスを唇へと運び、瞳を逸らさぬままに男はぐい、とグラスの中身を飲み干した。
「う"おい……」
 仕方なさげな溜息と共にそう言葉を落とすと、掴んだままの髪を更に引き寄せ、男は瞳の鋭さをそのままに、ゆるりと唇を開いた。
「降れ。注げ。満たしてみせろ……カスザメ」
 挑発するかのようなその命令に、スクアーロは一瞬目をみはり。今度こそ彼の手からグラスを取り上げ、傍らのテーブルの上へと置いた。
 無防備に晒されている秀でた額に、静かに唇を落とす。そのまま、高い鼻梁を唇で辿り、己を見つめる紅い瞳を見返しながらその厚く柔らかな唇へと口吻けた。
 肉厚な下唇を食み、誘い込むように開かれた唇の内へと舌を遊ばせる。舌が絡み合うまでもなく、スクアーロの口内へと移る、きついブランデーの味。接吻だけで酩酊しそうなその香気に、男はぎゅっと眉をしかめる。舌を絡ませ舐め上げる口蓋は、身の内を舐める焔のせいか、或いは酔いの為にか、常よりもひどく温度が高い。ゆるく唇を解き、スクアーロは唇が触れ合うほどの距離で囁いた。
「飲み過ぎだろぉ、ボス……」
「うるせぇ」
 紅い瞳を不興げに細め、ザンザスは噛み付くように唇を重ねた。ねじ伏せるような、貪り尽くすような、心までも蹂躙されるような接吻。ザンザスの舌と唇に酔ったようになりつつ、スクアーロは背もたれについていた手をその肩へと滑らせた。
 ザンザスの熱い舌が、スクアーロの薄く冷たい唇をゆるりと舐める。流れ落ちる銀の髪はしっとりと冷たく、ザンザスの頬や首筋に降り掛かる。その髪をきつく握り締められたまま、スクアーロは屈んだ体勢から、ゆっくりと床に膝をついた。自然、名残惜しげに唇が離れる。
 跪き、男は髪を握っているのと反対側の手を取った。骨張りながらも形の良いザンザスの手。本当ならばそこに、指輪をはめてやれるはずだった。
 はず、だったのに。
 二度失敗し、その機会はもはや永遠に訪れないのだと知った。あの時のザンザスの絶望はいかばかりだった事か。その怒りと苦しみが、今も彼の身を焼いている。
 あまりにも理不尽な、痛み。
 そっとすくい上げたその手の甲に、スクアーロは静かに口吻けた。
「何の真似だカス」
 珍しくもないそんな仕草に、けれどザンザスは眉根を寄せて。
「オレは、お前だけの剣だぁ……お前ひとりの、雨だ」
 外から忍び寄る雨音に紛れかねないその囁きは、主の耳にはきちんと届いていたようだった。
「それがどうした」
 何を今更当然の事を、と言わんばかりの口調で返される。
「これまでも……そしてこれからも、だ。変わらず、お前の空に降る雨でいさせてくれぇ」
「知るか。勝手にしろ」
 放り投げるようにそう言いつつも、掴んだ髪は離さないままで。
「あぁ、誓いも何もかも、全てオレの勝手だぁ」
 だからこれからもそうするぜぇ。呟くような言葉が聞こえているのかいないのか、ザンザスの表情は微塵も変わる事がない。勝手に覚悟を決め、ずっと側にいると誓った証は、今でもさらさらと流れ落ちる長い銀髪として目に見える形で引き継がれている。
 身体の傷は癒えても、見えぬ心に、魂につけられた疵はいつまでも癒える事がない。血を流し続けるそれが、いつかかさぶたになるのだろうかと思いながら。スクアーロはひとり、痛む胸に唇を噛む。
 この男を守る剣でありたかった。
 それだというのに、一度ならず二度までも、この男を守る事ができなかった。
 だから、せめて。
 外へ噴き出さず、お前自身の身の内を焼き尽くす業火を、この雨で癒させてくれ。
 お前を癒し、潤わせてくれ。
 そう、心の中で請い願う。
 心も身体も魂も、持てるものは全てこの男に捧げ尽くしているのだ。溢れるほどに心を注げと言うのならば、いくらでも注ごう。血を流せと言うのであれば、最後のひと滴までも流してみせる。涙が必要ならば、泣けないこの男の代わりに、傍らで泣き続けるのさえ厭わない。

 ―――だから、頼むから……

 手の甲への接吻を繰り返すスクアーロの髪が、再びきつく引っ張られた。強引に顔を上げさせられる。上げた視界には、己を見据える紅く輝く二つの瞳。その瞼がゆっくりと下がり、スクアーロに覆い被さるようにして、ザンザスが口吻けてくる。椅子に座ったまま、スクアーロの身体を引き寄せて。唇と舌と唾液の絡み合う音に酔わされながら、スクアーロは全てを奪いたいかのようなその接吻に応えていた。接吻の合間、うわごとのようにザンザスは呟きを落とす。
「畜生、熱ぃ……身体中、焼けそうだ……頭も身体も、熱い……」
 髪を握りしめるのと反対の手が、スクアーロの首の後ろを伝い、まるで抱え込むかのように後頭部へと回される。
「降れ。降り注いで……この身を冷ませ、スクアーロ」
 身体中を苛むこの焔を、癒せ。
 溺れる者のようにその髪を掴みながら、間近にある銀の瞳を睨み据える。
 曇り空を映し込んだ、北の果ての海の瞳。
「スクアーロ」
 目に見える、触れる事のできる誓いの証を、道に迷う幼子のような必死ささえ感じさせながらきつく握りしめて。
 窓の外から忍び込む、芳醇な水の匂い。
 鼻先に甘く香るブランデー。
 酔いに潤みながらも、きつく自分を睨み据える、紅い瞳。
 その全てに幻惑され陶然となりつつ、スクアーロは膝立ちのままにザンザスを抱き締めた。しっかりと筋肉のついた均整のとれた身体が、隊服越し、血の通ったてのひらと作り物の手との両方に、平等に鼓動と体温を伝える。
「ああ、溢れるくらい降り注いでやるぞぉ。だから、お前の熱を」

 痛みを、分けてくれ。

 囁いた声は切ないような響きを持っていて。触れ合った互いの唇の狭間で、染み込むようにゆるりと消えていった。
 窓の外、雨は静かに降り続いている。
 緑を潤し、地へと染み込むその滴のように、ザンザスの心を包める存在でありたいと。その熱さを確かめるように抱き締めた腕に力を込め、スクアーロは祈るようにザンザスの肩口へと顔を伏せた。



2/JUL/2007 了




SX祭雨夢企画様に
『雨」テーマで参加させて頂きました。
たとえ幸せであろうと不幸であろうと
二人がこの先ずっと互いの傍らにいられるといいなあと思いつつ。
スクがキモくならないよう、ボスがグラスを叩き付けないよう、と
その事ばかり注意しながら書いたお話でした。
気を抜くとすぐにボスがグラスを投げつけちゃうから…。



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