わずらい



 祭りの喧噪を遠くに聞きながら、無涯は拾い上げた紙屑をゴミ袋に放り込んだ。
 床に散らばった菓子の袋、転がったままのペットボトル。誰が置いて行ったのか、読みっぱなしで放置された雑誌ではグラビアアイドルが水着の胸元を寄せて笑いかけている。溜息ひとつついてそれもゴミ袋に突っ込むと、呆れたように呟きを落とした。
「……まったく、自分達で片付けもできんのかあいつらは……」
 明日からの練習をどうするつもりだ。
 そう続け、やれやれと首を振る。
 学祭の間中、この部室を溜り場にしていた部員達が大勢いたせいで、部屋の中は荒れ放題だ。普段ならば部活の度に整理整頓を徹底しているおかげで、男ばかりがいる部屋にしてはそれなりに片付いているのだが。だらしなく放り出されたゴミの数々を眺め、無涯はもうひとつ、深い溜息をついた。
「仕方のない奴らだ、まったく」
「ほんとッスよ」
 ふて腐れたような声が不意に響き、無涯は珍しく慌てた様子で後ろを振り返った。部室の戸口には、背の高い四番打者の姿。子供っぽく頬を膨らませ、拗ねた顔付きで無涯を睨み付けている。
「……御柳」
 何をしに来たと言わんばかりの声音で名を呼ばれ、ますます芭唐の唇が尖る。幼げなその仕草にふと笑い、無涯は言葉を促すようにもう一度名前を呼んだ。
「どうした、御柳。部室に何か用か?」
「用があんのは、部室にじゃなくて屑桐さんにッスー」
「む?何か問題でも起こったのか?」
 真剣な顔でそう問うて来る無涯にムッと口を尖らせて、芭唐はゆっくりと首を振った。
「べっつに野球部の用事とかじゃねーんですけど」
「む……そうか」
 では一体何の用だろうかと、無涯は内心で首を捻る。だが、それを口に出す事はしない。ここで重ねて問うたりすれば、手が付けられないほど拗ねて怒るのは目に見えているのだ。

 ――何を拗ねた顔をしているのだろう

 尖らせた口がガムを膨らませるのを眺めつつ、無涯はすいと肩をすくめ、再び片付けに没頭し始めた。
 華武高校では、この週末二日間で学祭が催されていた。クラスごとや部活ごとの出し物も華武高校ならではのものが溢れ、毎年周囲の評判は良いらしい。他校生も大勢遊びに来るという事もあり、なかなかに大盛況のまま今年も幕を降ろしたのだった。
 そして、今は恒例の後夜祭。
 日も暮れ、グラウンドではキャンプファイアーが盛大に燃えている頃だ。華武高校ではむしろ篝火に近いものになっているわけだが。
 他校の生徒も紛れ込む中、生徒達は皆、グラウンドに集まっている。
「なーんでグラウンドにいねーんスか?」
 膨らませたガムと同じくらいに頬を膨らませ、芭唐が不満げに問いを投げかける。学祭の間中もまともにつかまらず、後夜祭になっても姿が見えない無涯を探して、彼は散々校内を歩き回ったのだ。
「三年生は、出席する義務はないからだ」
「オレ、すげー探したんスけど」
「……そうか」
 だから何故、と問う事はやはりせず、無涯はただ難しい表情でこくりと頷く。その顔に溜息をひとつ落とし、芭唐はクイと顎をしゃくった。
「何でわざわざ屑桐さんが部室の片付けなんかしてんスか?そんなの下級生にやらせりゃいーっしょー」
「あまりに散らかっていたものでな。目に余った」
「だからって先輩自らそんな……」
「たまに練習がない時くらい、皆も羽を伸ばしたいのだろう。オレはもう学祭に参加が義務付けられている学年ではないからな。後片付けくらいしてやるのは構わん」
 華武高校では、三年生になると学祭への参加は個人の自由になっている。無涯も後輩達に請われて仕方なしに、形ばかり参加しただけという状態だ。だから無論、後夜祭など参加する必要は全くないのではあるが。
「……何をそんなに膨れている?」
「べっつに膨れてねーッス」
「む。そうか、気のせいだったな、すまん」
「そこで突っ込んで下さいよ!」
 納得すんな!と心で叫び、芭唐はますます頬を膨らませた。綺麗に整い大人びている顔立ちが、そんな表情をすると幼い子供のようにあどけなくなる。
「全然どこにもいねーから、また屋上いるのかと思ってさー。わざわざ屋上まで探しに行ったッスよ」
「こんな日にまで屋上へは行かん」
 期待と全く違う反応をされ、芭唐の肩ががっくりと落ちた。ここは『そんなところまで探しに行ったのか……すまんな』と少し照れた顔をするところだろう。少なくとも、彼が期待したのはそういう反応だ。
 まあ、期待外れはいつもの事と思い直し、芭唐は足元に転がっていたパックを拾い上げた。タコヤキかヤキソバが入っていたに違いないそれは、ソースと紅ショウガと青ノリでベッタリと汚れている。溜息ひとつ付き、彼はその汚いパックを手に無涯へと歩み寄った。
「はい、先輩」
「……何だ?」
「オレも手伝うッスよ。一人でやるよか、二人のが早く終わるっしょ?」
 肩をすくめながらのセリフに、無涯はついと眉を寄せた。窓の方へちらりと目をやり、困ったように首を傾げる。
「御柳、後夜祭は……」
「いーじゃねッスか、別に。オレが出なくたって平気ッスよ」
「む……学校行事とはそういうものではない、御柳。きちんと参加する事に意味があるのだと、常日頃言っているだろう」
 いつもの生真面目な調子を崩そうともしない無涯の顔を眺め、芭唐は唇の端にかすかに苦笑を浮かべた。
 堅苦しい事が嫌いで、説教などされたら虫酸が走るような人間だったのに。一体いつから自分はこんな風になったのだろうと。
 この男の口から零れる小言には、何故か胸の奥が温かくなってしまう。馬鹿みたいに純粋で、過ぎるほどの優しさと厳しさを兼ね備えたこの二つ年上のピッチャーの言葉は、柔らかな温度を持って芭唐の胸に染み込んでくるのだ。

 ――惚れてんだから、仕方ねーけど

 どこか悔しいような気持ちでそんな事を思い、芭唐は小さく唇を尖らせた。
「でも。後夜祭なんか、別に出なくてもいーじゃねッスか」
「そういう訳にはいかん」
「ここで先輩と片付けしてる方が、オレには有意義ッスー。……それに、部活の為にもなるっしょ?その方が」
「む……」
 床に転がるゴミを次々にゴミ袋に放り込みながらそう言う芭唐に、無涯はやはり困ったような咎めるような表情だ。何か言い淀むように唇をかすかに開き、やがて閉じてしまう。
「……何スか?」
 促すように芭唐が首を傾げれば、無表情な中に困惑を混ぜ込んだ微妙な顔付きで、無涯は唇を開いた。
「やはりお前は、後夜祭に行った方がいい」
「はあ?何なんスかー、もう!」
「おそらく、お前を探している女子生徒が沢山いる筈だ」
「……あー」
 それはたくさんたくさん、山のようにいる事だろう。
 学祭の間も名も知らぬ女達に囲まれて大変だった。近隣の女子高の生徒や、中にはかなり遠くの学校から来た女子もいたようだ。
 人気の面から言ったら無涯も同じくらいかそれ以上なのだが、近寄り難い空気を纏う彼に比べ、芭唐は近付き易そうだと思われているらしい。

 ――前だったら、別にいっくら喰ってやっても良かったけどさあ。今はそりゃーちょっと違うっしょ

 近寄って来る女がいくら居たとしても、最早それは芭唐の関心の対象外だ。芭唐の求める相手は、今はただ一人だけなのだから。
「や、確かに探してるかも知んねーですけど。別にオレにはカンケーねーですし」
「だが、彼女達はわざわざ遠方から、お前に会いたくてやって来たのだぞ。そんな失礼な真似をするものではない」
「じゃあ屑桐さんこそ、追っかけの女共に愛想良くしてやりゃいいじゃねースかー」
「む?オレはお前や桜花と違って、女子に人気がある訳ではないからな。むしろ怖がられているだろう」
「ハアッ?」
 心の底からそう思っているらしい無涯の真顔を見つめ、芭唐は呆然と口を開けたまま固まってしまった。遠巻きにしながらもキャーキャー騒ぎ立てているあの女達のどこを見て、自分が怖がられているなどと思えるのか、芭唐には理解不能だ。

 ――あー、ほんとこの人鈍い……つーか、全然まったくこれっぽっちも色んな事わかってねーわ

 諦めにも似た気持ちでひとつ吐息を零し、芭唐は倒れたままだった椅子をきちりと立て直した。いつもの彼ならば、椅子など倒れたままでも何一つ気にしない上、邪魔なら蹴り飛ばしてやるところだが、今日は違う。ここの掃除を一刻も早く終わらせ、せっかく見つけだした無涯と共に過ごす時間を増やしたいのだ。我ながら涙ぐましいと思いつつ、芭唐はしっかりと無涯に向き直った。
「つーか、先輩」
「何だ?」
「追っかけの女共の心配してやるよか、オレの事も気にしてやりましょーや、たまには」
 溜息混じりのそのセリフに首を傾げて無涯は掃除の手を止める。何を言っていると言いたげな顔で振り向く彼にもうひとつ溜息をつき、芭唐は唇の端だけで苦く笑った。
「大体ねー、あーゆー女共は別にオレが好きなわけじゃねーんですよ。『甲子園常連の華武高校の四番バッターなミヤナギ君』が好きなわけッス。御柳芭唐じゃねーわけ。そーゆー女達に囲まれてて、オレが楽しいと思います?カワイソくねーッスか、オレ?」
「む……そういうものか?」
「そーゆーもんスよ。……はい、掃除終わりっと」
「こら、まだ床を掃いていないだろう」
「もー。そんなの明日誰かにやらせりゃいーっしょ」
 渋る無涯の手から強引にゴミ袋を取り上げ、芭唐は部室の外の水道で手を洗ってしまう。これで掃除は終わりと全身で宣言してやれば、後ろ髪引かれる様子ながら無涯も大人しく手を洗った。振り返れば、二人がかりでゴミを片付けた部室内は、普段ほどではないにしても程々の過ごし易さを取り戻している。
「悪いな、御柳」
「へ?何がッスか?」
「結局手伝わせてしまった。おかげで早く片付いたぞ、礼を言う」
 ほんの少し目元を和ませて芭唐にそう囁き、無涯は部室内をグルリと見回した。これならば、明日も部員達が気持ち良く過ごせる事だろう。満足げに頷いて、無涯は部室のすみに置いていたカバンを取り上げた。
「さて、ではオレは先に帰らせてもらうぞ」
「はあーっ?!」
「む……どうかしたか?」
「って、ちょっと待って下さいよ!オレは!オレはどうなんの!」
 オレ!オレよオレ!と精一杯のアピールとして己を両手で指差しつつ、芭唐は既に涙目だ。
「だから……掃除を手伝ってもらって有難かった。時間を取らせてすまなかったな、お前は後夜祭に戻れ」
「あんた、さっき一体オレの話のどこを聞いてたんスかーっ!」
 あっさりと告げられた言葉に頭を打ち振り、芭唐はガッシリと無涯の両腕を掴んだ。もうこうなれば、実力行使しかないだろう。
「学祭の間中も、オレあんたと一緒に居たくてずーっと探し回ってたんスよ!見つけてもずーっと忙しそうにしてっしさあ。んで、後夜祭になったらなったで、グラウンドいねーし。屋上行ってもいねーし。やっと見つけたら掃除してっし。んで掃除終わったらとっとと帰るとかって、ちょっとひどいんじゃねースか!」
 一息にまくしたてられた内容に無涯は難しい顔で首を捻る。
「……さっきも聞こうと思っていたのだが……何の用で探していたんだ?そんなに大事な用件ならば、早く言えば良かろう」
 心底訝しげな声と顔でそう言われ、最早挫けそうな己の心を芭唐は必死に奮い立たせた。ここで退いては男が廃る。
「別に用事なんかねーッスよ」
「……?」
 言われた意味がわからないという様子の無涯の腕を引き、芭唐は彼を窓際の椅子に無理矢理腰掛けさせた。そのまま自分も近くの椅子を引き寄せ、どかりと音立てて古びたその椅子に座る。未だ、訳が分からないと言いたげな顔付きの無涯の腕を掴んだまま、その静かな瞳を芭唐はじっと見つめた。
 いつ見ても静かで、綺麗に澄んだ瞳だ。
「用事なんか、別になかったんです。ただ、あんたと一緒に居たかっただけッスよ」
 本当は、いつだって、いつまでだって一緒に居たい。
 傍らに在りたい。
 けれどそれは、所詮叶わぬ事だとわかっているから。
 だからせめて。
「……あ、時間ちょーどいいわ」
「何がだ?」
「後夜祭」
 呟くようにそう言葉を落とし、芭唐は目の前の窓をガラリと開けた。グラウンドの方角に面したそれが開くと、離れたところから人のざわめきと音楽、そして火のはぜる音が流れ込んで来る。
 やや遠いそのグラウンドでは、もう後夜祭も終わりの気配を見せているようだった。
「後夜祭が、どうした?」
「恒例のあれッスよ。……ほら、上がった」
 シュッと言う音と共に、小さな花火が夜空に上がる。無論、夏の花火大会などで見られるような大掛かりなものではなく、市販の打ち上げ花火に毛が生えた程度の小さな花火だ。
 祭りの終わりを告げる、小さな華。
 ほんの少し寂しげなそれを窓から見上げ、芭唐はわずかに目を細めた。薄い硝煙の匂いを、ゆるやかな風が運んで来る。
「ああ、終わりの花火だな。もうそんな時間だったか」
「そんな時間つーか……もー、ホント先輩はロマンを解する心とかに欠けてるッスよね」
「……?」
 座ったままで窓枠にコトリと頭をもたれさせ、芭唐はほんの少し恨みがましい目付きで隣に座る無涯を見やる。もう一度花火が上がり、その髪と瞳をほんの一瞬明るく照らした。尖らせた唇からは、可愛らしいような恨み言。
「これをね、先輩と一緒に見たかったんスよ」
「何故わざわざ……」
「だって、今年だけじゃねースか」
「何がだ?」
「……あんたと一緒に、この花火見れんのが」
 我ながら恥ずかしい事を口にしていると思いつつ、芭唐はぱたりと面を伏せる。部室の中も窓の外も暗いとは言え、赤く染まった顔を見られるのはどうにも照れくさい。
「花火など、毎年どこでも花火大会があるだろう」
「そーゆーんじゃねーんですって。華武高の後夜祭の花火は、年に一度これだけっしょ」
「……それが、どうかしたか?」
 首を傾げ、理解しかねるといった風情で芭唐を見つめる。時折、この後輩は無涯には理解不能な事を言い出すから困りものだ。未だ捕らえられたままの腕を振り解かずに、窓から差し込む薄い明かりに照らされたその頭を無涯はただ静かに眺めていた。
「だからー……屑桐さんと一緒に、この華武高校で過ごせんのって今年だけだから。先輩にはどーでもいいよーな事かも知んねースけど、オレはそーゆーの大事にしてーんですよ」
 言いながら顔が火照るのが自分でもわかり、芭唐はそれを隠すように更に下を向いた。
 自分でも、随分と馬鹿な事を言っている自覚がある。
 けれど、無涯と共にこの学校で過ごせる時間があとわずかなのも本当の事で。
 春に出会い、夏の大会を共に駆け抜け。そして今は秋。冬の足音はもうすぐそこまで聞こえている。全ての季節を、一度しか共に過ごす事はできないのだ。
 その後は、無涯はここを去り、ただ芭唐だけが残される。
「……何で同じ年じゃねーんだろ」
 唇から零れた言葉は吐息だけで形作られ、無涯の耳までは届かない。吐息と共に瞳を何かが濡らしそうになり、芭唐は慌てて唇を引き結んだ。そこまでみっともない真似は、いくらなんでもできないと言うものだ。
「……そうか、そうだな……今年限りだからな」
 穏やかな声に顔を上げれば、いつになく柔らかな瞳をした無涯が、静かに自分を見つめている。
「何て顔をしている。気付かなくてすまなかった。そうか、この花火をここから見られるのも、今年限りか」
 そう囁き、無涯はくしゃりと芭唐の髪を撫でた。傷んでツヤのない、パサパサとした髪。この髪をこうしてこの部屋で撫でられるのも、あとわずかだ。
「……だが、先程も言っただろう?花火大会ならば、毎年どこでもある。……まあ、今度の夏はお前が夏季大会で忙しいだろうがな」
 柔らかな声音が告げたその言葉に、芭唐の目が見開かれる。
「それって、卒業しても会ってくれるっつー事ッスか?!」
「さあな」
「ほんとにほんとですか?ねえ、屑桐さん!」
「知らん。花火大会は毎年どこでもあると言っただけだろう」
 突然無愛想な声になり、無涯はギュっと眉根を寄せた。その目元がかすかに朱に染まっている事にも気付かぬままに、芭唐はただじっと無涯を見つめる。腕を掴んでいた手を滑らせてその手を握れば、カサリと乾いたてのひらは常よりも高い温度を持っていた。
「屑桐さん」
 窓の外、後夜祭が終わっても名残惜しげにグラウンドに残った生徒達のざわめき声が風に乗って流れ込む。祭りの終わりを告げる花火の効果など、何程のものだろう。誰も彼もの胸に、未だ祭りの余韻が渦巻いている。
「ね、屑桐さん。花火大会行かれなかったらさ、甲子園、見に来て下さいよ」
「オレだってその頃は忙しいに決まっている」
「いいじゃねースか。一度くらい、ね?」
「オレがいなくなっても、お前がきちんと部活を頑張るのなら、考えん事もない」
「当たり前っしょー!あんたの名に恥じないように、華武高を更に強くするッスよ」
 頬を膨らませそう言い募る芭唐にふと目を細め、無涯は小さく頷いた。

「そうか」

 素っ気無いほどに短いその返答に、けれど様々な意味が込められているように思われ、芭唐の胸は柔らかく温かなもので急速に満たされていった。
 胸の奥が熱い。
 泣き出す寸前のような熱さで、けれどその痛みは酷く甘いのだ。
 その感情の奔流に身を任せ、芭唐は泣き笑いのような表情のままに、握り締めた無涯の手を引いた。椅子の上、無涯がかすかに身じろぐ。
「ねえ、屑桐さん。キスしていい?」
「いつも聞かずにしているだろう」
「でもさ、なんか……」
「ガムを捨てろ、馬鹿者が」
 苦笑混じりに言われた言葉に素直に従い、芭唐は包み紙にガムを吐く。すっかり味のなくなったそれを丸めて無涯に向き直り、そっと唇を寄せた。
 乾いた感触の前髪が無涯の額に当たり、彼がくすぐったげに瞳を閉じる。静かに閉じられたそのまぶたを見つめながら、芭唐は柔らかに、触れるだけの接吻を落とした。神聖な誓いででもあるかのように。
「……好きですよ」
 もう何度繰り返したか知れぬ言葉を飽きもせず舌に乗せ、そっと囁く。それを耳にした無涯が返した答えは。
「……馬鹿者が」
 苦笑混じりの、いつもの返答でしかなかったのだけれど。
 何故かそれが酷く胸に染み、芭唐はうっとりと幸せそうに瞳を閉じた。来年も、そしてもしかしたらその次も、こんな風に接吻を許されるかもしれないと。酷く幸せな気持ちのままに、芭唐はそっと無涯の肩に頭をもたれさせた。
 抱き締めてしまうには勿体ないほどに、甘く優しい空気に満たされていたもので。






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