わが接吻を君から引き離すものはなく





 遠くでかすかに雷鳴が響いた。
 半ば夢の中のままに、ベックマンはぴくりと眉を上げる。昨日から古傷が痛んでいたのはこのせいかと頭の隅で納得し、掛け布をたぐり寄せて寝返りを打つ。
 帆は、既に畳んである。そう大きなシケでもないだろう。軽く殴り掛かる程度の雷雨があって終わるくらいだ。問題ない。
 ひとつひとつ確認し、ゆっくりと息をついた。
 もうしばらく、まどろみの中で過ごす為。
 眠りは柔らかにベックマンの身体を包み、その心地よさに男はもうひとつ吐息をつく。
 未だ外は闇の中。夜明けの気配はまだちらりとも感じられなかった。
 

 雨の気配に、男はむくりと寝台から起き上がった。
 寝起きの鼻を鳴らして、ひとつ大きな伸びをすると窓を大きく開け放す。雷雲が黒々とこちらへ向かって来るのが見て取れ、シャンクスはにやりと笑って寝台から飛び下りた。
 もうすぐ、雨が降り出すだろう。空気の匂いがそう告げている。
 あいつの側でカミナリ見物と洒落こもうじゃねぇか。
 サンダルをつっかけるのも忘れ、男は大急ぎで船長室から駆け出して行った。
 
 
 勢いのまま蹴破るようにドアを開けようとして、シャンクスはふと動きを止めた。
 夜明けなどまだまだ先のこの時間、当然ベックマンはまだ寝ている事だろう。彼の朝は早いが、それは仕事が山積みだからという理由であって、決して朝に強いわけではない。今頃は気持ちよく夢の中にいるはずだ。
 きしし、とシャンクスは品の無い笑いを零す。むき出しの腹を右手でぼりぼりと掻きむしり、足音を忍ばせながらそっと男の部屋へと忍び込んだ。
 闇に包まれた室内には、小さな寝息がこぼれ落ちている。穏やかなそれはシャンクスの耳にどこか甘く響き、いたずら心をことさらに煽る。機嫌のよい大きな猫のように喉を鳴らして、男は静かに寝台へと歩み寄った。
 窓際に置かれた寝台には、甲板からの光がわずかに忍び込んでとろりと掛け布を照らす。海の底のような色合いの中、身体を丸めるように横になった男は、静かな寝顔をさらしていた。起こさぬように、そっとその隣に身を滑り込ませる。
「……どうした」
 低く耳に心地よい声がシャンクスの耳をくすぐった。
「なーんだ、起きてたのかよ」
「起きてたんじゃない。あんたが部屋に来たから起こされたんだ」
「なあなあ、カミナリ見ねぇ?」
 心底眠そうなベックマンの声をまったく無視して、男は弾んだ口調でそう提案する。シャンクスとて寝起きのはずだが、全身これ全開の目覚め状態だ。
「……雷なんざ珍しくもねぇだろう」
「ほら、だんだんこっち来てんだよ」
「貴重な睡眠の邪魔をしないでくれ、キャプテン」
「おっ、今向こうの方で光ったぞ!」
 なおも騒ぐシャンクスに小さく溜息をつき、ベックマンは腕を伸ばす。身を起こしたままだった騒がしい男を引き寄せ、そのまま掛け布の中に引きずり込んだ。
「騒いでるとカミナリ様にへそを取られるぞ」
「な〜に婆さんみてぇな事言ってんだよ」
「いいから静かに寝たらどうだ?まだ夜中だぞ」
 眠そうに目を閉じたまま、男はシャンクスを抱え込んだ腕に力を入れた。正直な話、眠くてたまらないのだ。船長の気まぐれはいつもの事だが、そうそう毎回付き合ってもいられない。普通なら、蹴り飛ばして部屋から追い出してやるところだ。
「……ったく、いい年したヒゲ面の男が雷ひとつで大騒ぎするな」
「自分がヒゲじゃなくなったからって何だてめぇ、その言い方!」
「だから、騒ぐな」
 溜息ついてそう言われ、シャンクスは口を尖らせてようやくおとなしくなった。いくつになっても、こういうところは子供のままだ。小さく舌打ちをして、男は目の前にあるベックマンの顔にしげしげと見入る。
 秀でた額、高い鼻梁、皮肉げな口元。
「……妬けるねぇ」
「何がだ」
「お前があんまりいい男なもんでね。あーあ、なんだってこんな男前なんだかな」
 額に走る古傷に触れ、なんとはなしにそうぼやく。付き合いは長いが、見る度に好もしいと思える不思議な顔だ。
 

 ――惚れた欲目って奴かねぇ
 

 そんな事を埒も無く考えながら、シャンクスはにやりといやらしい笑いを浮かべた。
「なあなあ副ちゃん」
「……あくまでも俺の眠りを邪魔する気なら、出口は向こうだぞ、お頭」
 俺はあんたと違ってヒマを持て余してるわけじゃないんだと呟き、シャンクスを抱えていた腕を解いてしまう。船長の分まで仕事をこなしている彼としては、今日のところは時間外労働に応じるつもりは毛頭なかった。
「なんで出てかなきゃいけねぇんだよ。なあなあ、そんな眠いの?」
「そんなに眠いんだ」
「仕方ねぇな〜、それじゃ、このオレ様が腕枕をしてやるとするかな〜」
 ほんとに仕方ねぇな〜、副ちゃんはな〜、とひとりで照れたように繰り返しながら、男は一本だけの腕を差し出す。ささ、これを枕に!と催促するようにベックマンを見つめ、にじり寄る。ようやく目を開けた副船長は、やや険悪な目付きで差し出されたその腕を見る。
「……腕枕?寝相の悪いあんたが?」
「いいじゃねぇかよ、な!な!」
 自分がベックマンに腕枕をしてもらった事はあっても、してやった事がない。やはりここはひとつ、腕枕で甘い時間など過ごしてみるのも、たまにはいいものなんではなかろうか?いいものに違いない。そうに決まってるじゃねーかこん畜生!自分の思い付きに、シャンクスは興奮して鼻血が出そうな勢いだ。
「遠慮しとく」
「すんなってばよー、なあ!」
 しつこくしつこく食い下がり、どうにか首の下に腕を入れさせてもらう事に成功し、男はすっかり御満悦の表情になった。
「な?な?どうよ、副ちゃん」
「寝かせろ」
「ラブって感じがすんだろ?な?」
 四十に手の届こうという男が、どの面下げてラブなのか。
「首が落ち着かん」
「上向いてねーでこっち向けってばよ。よりいっそうラブな気分になるから!」
 耳元で大声を出さないでくれと訴える事も諦め、ベックマンは素直に横向きに眠る体勢をとった。シャンクスの顔が、吐息がかかるほど近くにあり、心臓の鼓動すらも近しく感じられる。
 

 ――ああ、そういえば
 

 遥か昔、まだシャンクスと出会う前の事。彼にこんな風に腕枕をした女がいたものだ。細く柔らかな腕、まろやかな身体。彼が腕枕をしようと半ば義務的に差し出すと、軽く笑ってその腕を叩かれた。
 馬鹿ねえ。惚れた相手を抱いて眠るって贅沢を、このあたしにさせない気なの?
 その言葉通り、女は彼の頭を胸に抱えるようにして、安らかな寝顔を見せた。幸せそうな、安堵したような、そんな寝顔。幸福な寝息。
 その時の彼には、その贅沢がどんなに幸せなものか理解できずにいたのだが。
 

 ――そうだな、今ならわかるさ。あれがどんなに贅沢で幸せな事かってのが
 

 そして、惚れた相手に抱かれて眠る幸福も。今の彼ならばよくわかる。
 シャンクスの腰に手を回し、身体を添わせてベックマンはひとつ、柔らかな吐息をついた。両手で数えても足りない月日、この男と共に過ごして来た。飽きる事なく、立ち止まる事もなく。それはこれからも決して変わらないだろう。共に、どこまでも進む為に傍らにいるのだ。
 己のもののように馴染んだシャンクスの匂いを胸に吸い込み、ベックマンは小さく笑った。
「どうした、副ちゃん。おれの愛を感じて惚れ直しちゃったか?」
「……ったく、あんたって人は……」
「素直に言えって」
 睦言のように囁き交わし、互いに声を殺して笑い合う。
「そうだな、惚れ直したよ。ずっとあんたに惚れっぱなしだ」
「そうそ、ずっと惚れとけよ」
 だらしない笑みを浮かべ、シャンクスは男の髪に接吻を落とす。いつの間にやらすっかり白くなってしまった、見事な若白髪。苦労のほどが忍ばれるそれを愛おしげに見やり、シャンクスは男の瞳を覗き込んだ。
 近付いた雷が、窓から強い光を投げ掛ける。船が揺れを激しくするのを気にも止めず、覗き込んだ瞳に囁きかける。
「そんでおれ達はずっと海賊やってくんだ。ずっと一緒にな」
「……共に白髪の生えるまでって?」
「お前はもうとっくに白髪だけどよ」
 ふたりそろって弾けるように笑い、互いの身体に回した腕で強く抱き締め合う。いい年をした大柄な男ふたりが、身体を絡ませ合い笑い転げている姿はまるで子供のようだ。
 

「いいさ、共に白髪の生えるまでだ」


 ハゲようがどうしようが構わねぇだろ、と言い合って、また笑い合う。
 嵐も凪ぎも、勝利も敗走も、栄光も屈辱も、共に分け合い支え合い。
 そうしてこれからも生きて行こう。
 誓うともなく心に誓い、ふたりは顔を見合わせてまた大笑いをした。
 共に白髪の生えるまで。
 病める時も健やかなる時も。
 そういう事だ。





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