花結





 ふと鼻先を掠めた花の香りに、ベックマンは辺りを見回した。
 今は航海中、見渡す限りに海原が広がるこの場所で、よもや花が咲き乱れているとも思えない。気のせいかと首を傾げ、男は海図を片手に再び甲板を歩き出した。潮風にまぎれ、既に花の香りなど消し飛んでしまっている。
 不意に一際強い風が吹き、いっぱいにそれを受けはらむ白い帆を眺め、ベックマンはもうひとつ、首を傾げた。
 
 
 
「ばっかやろう、ルゥ!それじゃねぇだろ、こっちだこっち!」
「お頭よぅ、こりゃ無理だってば」
「無理な訳あるか!作るったら作るんだ!」
 本人達はひそめているつもりの、だが十分にやかましい声で、ふたりはああでもないこうでもないと押し問答を繰り返している。下っ端の船員達は、触らぬ神に祟りなし、と知らぬ顔を決め込むばかり。見かねたヤソップが手出しして、ようやく作業は少しずつながら進み始めたところだった。
 大海賊、赤髪海賊団。その大頭と呼ばれるようになって久しい男は、例によって年に似合わぬ大はしゃぎをしている最中だ。
 目の前には、胴の部分で真二つに切られた大きな樽。
 不器用な右手を更に不器用に使いながら、シャンクスは樽の底に穴を開けようとやっきになっていた。
「ほら、お頭。貸してみろって」
「嫌だ」
「……しょーがねぇなぁ、ほんとにあんたはー。貸せよ、こいつにゃコツがあるんだ」
 ほれ、と手を出すヤソップに、不承不承と言った様子で男は道具を手渡した。受け取った方は、慣れた仕草で樽を足に挟み、ゴリゴリと音立てていくつかの穴を開けていく。
「気に入らねぇ!」
「何だって?」
「なーんでオレができないのに、お前はそんな簡単にできるんだよ!」
 そりゃ、あんたが不器用だからじゃ…とは誰も突っ込みを入れなかった。虚しいを通り越し、もはや馬鹿馬鹿しいからだ。
「はいはい、と。そんで、これからどうするって?」
 シャンクスの文句を気にも留めず、ヤソップは淡々と作業を進める。赤い髪の男に与えられた役目は、その横で指示を出す、それのみだ。
「で、なんだってこんな事おっ始めたんだい?大体、副船長にやってもらやぁ、あっと言う間だろうによ」
「その副ちゃんに内緒で作りたいんだよ」
「はあ?」
 だから、内緒で……とそこまでシャンクスが口にした時。
 ゆったりと煙草の煙が渦を巻き、彼の鼻孔をくすぐった。慣れ過ぎるほどに嗅ぎ慣れたその煙の匂いに、弾かれたように振り向くと。
 
「……で、誰に内緒で何を作るって?」
 
 苦笑を浮かべて眉間を掻いているのは、ベックマンその人だ。苦労のほどが窺える、綺麗に色が抜け落ちてしまった髪を潮風になびかせ、煙と共に溜息をひとつ吐き出して彼はゆっくりと腕を組み直す。
「あー、もう見つかった……」
「見つかるも見つからねぇも。この船でこんだけ大騒ぎしてて、それでも隠れてるつもりだったのか?」
 散らかった工具や樽のかけら、大きな麻袋などを見回して、副船長はもうひとつ溜息をついた。
「さっきから土の匂いがするんでおかしいと思ったら……」
「土だけじゃねぇって。花もあるぞ」
「それもさっき気付いた」
 で、何をしてるって?
 目線で答えを促すと、シャンクスは唇を尖らせて答えない姿勢だ。ヤソップは呆れ顔で、ルゥは面白そうになりゆきを見守っている。下っ端達は相変わらず関わりたくない様子で、意味もなく忙しそうに立ち働いている。答えを待つ副船長が新しい煙草に火を付けたところで、赤い髪はようやく尖らせた口を開いた。
「できあがってから見せようと思ったのによぅ」
「そいつは悪かった」
 どこか生真面目なその返事に笑い、途端に機嫌を直した男はベックマンの腕を引いた。内緒話でもするように顔を寄せ、
「仕方ねぇ、予定変更だ」
と悪戯な顔付きになってみせる。
「……何だ?」
「まあ、これ見てみろって」
 浮き立つような声音で、木箱の陰から引っぱり出したのは、いくつかの花の苗だ。先程から辺りに鮮やかな芳香をまき散らしていたのは、どうやらこれに間違いはない。
「な!」
 何がどう『な!』なのかはわからぬまま、曖昧にベックマンは頷いてみせた。
「何だよ、もっと嬉しそうな顔してみせろって!」
「……いや、嬉しそうも何も……」
「だってお前、この花、好きなんだろ?」
 その言葉にわずかに首を傾げ、だがすぐに思い当たったように、男は笑みを浮かべた。
 
 数日前まで補給の為に立ち寄っていた街に、この花が咲いていたのだ。海に面した断崖で、潮風を真正面から受けながらそれでも凛と咲き誇って揺れている。時に柔らかな甘さを含み、時に爽やかに清々しく香るその花は、海辺一帯の空気を優しい色に染めていた。
 咲き乱れるその花を見つけたのは、ちょうど散歩の最中だった。放っておいたら買い出しの邪魔をしかねないシャンクスのお目付役として、ベックマンは細心の注意を払いつつ彼の探検に付き合っていたのだ。まあ、いつもの事ではあるが。
 不意に遭遇したその光景に男はしばし言葉もなく見とれ、やがて静かに微笑んで傍らのシャンクスに目を移した。口をぽかんと開けたまま、断崖に張り付くように咲いている花々に目を奪われていた大頭が、こちらもようやくベックマンに目を向ける。
『いやあ、すっげぇ綺麗だなぁ』
『ああ、そうだな』
『……こういうのがあるから、船乗りはやめられねぇなぁ』
 見た事のない光景、息を飲む美しさ。宝だけでなく、闘いだけでなく、冒険だけでなく。魂に囁きかけてくるこんな瞬間があるからこそ、海に出る事はやめられないのだとシャンクスは呟きを落とす。
 目尻に小さなしわを刻み、ベックマンは笑みを浮かべる事でその言葉への返事を返した。
 
「ああ……この花か」
「反応が遅ぇよ、もうボケ始めたかよ副船長!」
 しっかりしろと背中を叩き、シャンクスはにしし、と品の無い笑いを零してみせた。街の花屋で買ったのか、或いは断崖から持って来たのか。とにかく男は満足げだ。
「お頭、これって副船長へのプレゼントだったわけかよ?」
 やってられません、という顔でヤソップがノコギリを放り出す。
「そーいう訳じゃねぇけどよう。ま、それはそれでいいかもね〜」
 鼻歌混じりのそのセリフに、ヤソップは悪態と共に樽のかけらを投げ付けた。ついでのように、にやけたシャンクスのおでこにチョップを一発お見舞いしてやる。
 痛い痛いと言いながら、男は笑って花の苗を副船長に手渡した。
「これをさ、この樽に植えようと思ったわけ」
「船の上で花の栽培か?」
「いいじゃねぇか、なんか潤いって感じだろ?」
 男ばかりのむさ苦しい船の上、今さら何が潤いか、という気もするが。まあいいだろう、とベックマンは手の上の花を眺めて小さく笑んだ。
 向こう見ずなあの子供、ルフィの船にはみかん畑まであるのだと、風の噂で耳にした。ならばこちらは小さな花でも愛でる事にしようかと、いずれ再会するであろうその日を思いながら、男は吸いかけの煙草をつまんで捨てた。
「潤いか」
「潤いさぁ」
 名も知らぬ、小さく香り高い花。
 むくつけき海の男達がそんなものに癒されても、悪くないではないか。
「それもいいな」
「だろ?そう言うと思ってたぜ、相棒」
 花と土の香を胸に吸い、ベックマンはゆるりと唇を解き、微笑んだ。
 あの日、共に見た光景のかけらがここにある。それはどこか幸福という言葉を思い起こさせ、男の心を安らかに満たした。
 得意げなシャンクスの顔を見やり、男はもう一度、ゆったりとした微笑を浮かべる。
「ああ、悪くない」
 赤い髪の男は、そのセリフに三本傷の入った片目を器用にすがめ、唇の端でにんまりと笑ってみせた。
 
 
 
 海を渡る風が強く吹き抜け、樽に植えられた小さな花がいっせいにさざめいた。
 こんなのも、悪くないとでも言うように。





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