心臓の音が、妙にうるさく鳴っていた。
卍高校からの帰り道だ。
屑桐はひとり、小さく首を傾げる。
走っているわけでもなければ、体調が悪いわけでもない。なのに、何故こんなにも動悸が早いのだろうかと。
――録や御柳に抱かれている時のようだな
ふと浮かんだその考えに苦笑し、ちらりと後ろを振り返る。朱牡丹はいつものように携帯電話をいじりながら、彼のすぐ後ろを歩いていた。その横では、これもまたいつものように久芒が鼻水を垂らしている。ティッシュを出してやりながら、屑桐はもう一度後ろを振り返った。
御柳は、いない。
先に帰って行った。
試合が終わってすぐに、露骨な言葉で屑桐を誘って来たので、彼は溜息ついてそれを断ったのだ。
『今日は試合で投げて疲れているからな。家まで行っても口しか使わないが、それでいいか』
すると、怒ったように眉間にしわを寄せて、御柳は小さく舌打ちをしてみせた。
『……何スか、それ……もーいーッスよ』
そのまま踵を返し、彼は一足先に卍高校から帰ってしまった。
――あいつだって試合で疲れているだろうに、何を考えているんだ
しかも怒って先に帰るなんて、そんなに溜まっていたのだろうかと屑桐は頭の端でちらりと不安になった。まさか、これで問題を起こすような馬鹿ではないと思いたいが。
自分の言葉のどの部分に対して御柳が怒ったかわかるほど、屑桐は他人の感情に聡くない。むしろ、過ぎるほどに鈍感だ。他人の感情だけでなく、自分自身の感情に対しても。
――まあ、いい
御柳の事はどうでもいい問題として思考を放棄し、屑桐は胸に手を当てた。
まだ、心臓が高鳴っている。
ふと気付けば、体温も高いようだった。
妙に気分が高揚して、そわそわとした気持ちが胸に渦巻いている。
――……何だ?これは……
屑桐は、またひとりで小さく首を傾げた。
「屑桐先輩、な"んか御機嫌いいングね"ー」
久芒が小さな声で、隣の朱牡丹に囁きかける。少し前を歩く屑桐はいつもの無表情と違い、どこか楽しげに落ち着かぬ風情だ。
「……十二支のキャプテンとかいうのに会ったのが、よっぽど嬉し気なんだろ
(-"-)」
「あ"ー、昔の知り合いとか言ってたな"。でも、仲良くないっぽかったングよ"」
「知らね。つか、お前ウゼェ (-_-#)」
のほほんとした久芒の言葉を一瞬にして切り捨て、朱牡丹は苛々と携帯電話のボタンを押し続ける。適当に友人のアドレスに、どうでもよいメールを送りつける。特に意味はない行為。ただ、携帯を弄っていれば少しは気分が落ち着くだけだ。
――あいつかよ
刺すような痛みに、胸がつぶれそうだ。
いつもどこか遠くを見ていた屑桐の瞳が、焦点を合わせ輝くのを朱牡丹は見てしまった。いい試合をした時に喜ぶ顔とも違う、練習の時に見せる顔とも違う、そしてもちろん、ふたりだけの時にも決して見せた事のない、あの嬉しげな顔。
眠っていた感情が突然に揺り起こされたかのように、屑桐の瞳は生き生きと輝いていた。
思い出と憎しみと……おそらくは愛情と。それらを全て混ぜ合わせた何がしかの感情が、屑桐の瞳をあんなにも輝かせる。その事を知り、朱牡丹の心は抑えようもなく痛みを訴えていた。
あの透明な瞳が見つめ、追い続けるものの正体を知ってしまったが故に。
「録は機嫌悪いングね"え」
「悪くねーよ、別に (-_-)」
「そう"かー?」
「……俺、ただ悔しいだけだよ (>_<)」
その言葉に、久芒は不思議そうに首を傾げる。
「ただちょっと……悲し気なだけだ (ノ_・。)」
そう呟いた朱牡丹の声がどこか泣きそうに聞こえ、久芒はぼんやりとしたままの顔をわずかに歪めた。
ユニフォームやグローブでかさばるバッグを肩に掛け直し、屑桐は静かに遠くの空を眺めてみた。紙飛行機を飛ばしたらさぞ似合うだろう、綺麗に澄み渡った空だ。
屑桐には、紙飛行機の事を思うと、条件反射のように必ず思い出す男がいた。
――ああ、そうか
やっと、心の中で全ての糸が繋がる。この心臓の高鳴りは、体温の熱さは、胸の高揚は。
――あいつに、会ったからだ
あまりにも久しぶりの再会を果たした、かつての友。相変わらず小綺麗な顔をして、坊ちゃんくさい喋り方で。
共に野球への情熱を語り合ったあの日よりも伸びた背と大人びた顔立ちが、過ぎた年月を否応もなく屑桐に教えた。道が分かたれてから、どれほどの月日が経った事か。指折り数えずとも、屑桐にはすぐに答える事ができた。ずっと、心の底でその事だけを思い続けて来たからだ。
強く、強く。少しでも強くなりたい。
再び会う事があったなら、彼をねじ伏せてみせようと。
今よりも強く。昨日よりも強く。あの頃よりも強く。
その事だけを、胸に刻み込んで。
――馬鹿な男だ
十二支などに行ったのが全ての間違いの元だと、屑桐は苦く心で吐息をつく。我知らず、荒れてささくれだった自分の手を眺めた。日々酷使するせいで曲がった関節や、つぶれてもつぶれても新しくできるマメで彼の手はボロボロだ。平らにつぶれた爪は、すり減って何本も筋が入ってしまっている。
ふと、中学時代の思い出が甦りそうになり、彼はかすかに唇を噛んだ。
思い出すなと、そう己に言い聞かせる。
ガサガサの手にそっと触れてきた指。
つぶれたマメに寄せられた唇。
泣きそうになりながら、ごめんと囁いたその声音。
全てが昨日の出来事のように鮮やかに脳裏に甦る。
思い出すな。もう一度己に言い聞かせ、屑桐はきつく両の瞳を閉じた。まぶたに浮かぶのは、はにかむようなあの男の顔。耳に響くのは、あの日の約束。
『高校に進んでも、また君と同じチームでプレイしたいな』
果たされる事のなかった幼い約束は、今でも屑桐の胸を苛み、痛ませている。
或いは、言い出したあの男の胸も痛ませているのかも知れないと思い、屑桐は小さく苦笑した。
――本当に、お前は馬鹿だ
胸の高鳴りは、おさまる気配もない。
あの男の名を呼ぶかのように、強く早く心臓が打ち鳴らされている。
――また、出会えた。またお前に出会えたぞ
自分の後ろを守る存在としてでなく、自分の球を打ち取る存在として。
その事に、屑桐は自分でも奇妙に思うほど高揚していた。対戦する日を思うだけで、おかしいくらい興奮する。
バッターボックスに立ってこちらを見据える瞳を思う。
全ての感情をないまぜにしたあの瞳が、ただ自分の投げる球を打つ為だけにこちらを見据えている、その様を。ぞくりと背筋を何かが駆け上がり、屑桐は甘苦しい吐息をついていた。
無論、簡単に打ち取らせなどしない。
この二年、屑桐が毎日どれだけの努力を重ねて来た事か。
――失望させるなよ、牛尾。
そう心の中で呟き、屑桐は嬉しげに唇の両端を吊り上げた。
心が熱い。
今まで眠らせていた様々な感情が、渦を巻くようにして胸から溢れ出して来る。それに心地よく身を任せ、屑桐はうっとりと両の瞳を閉じた。心地よく、そして、熱い。
まぶたの裏、どこまでも青い空に、紙飛行機が綺麗に弧を描いて飛んで行くのが見える。身体を巡る熱と感情の奔流に為す術もなく、屑桐は幸せそうな笑みを零した。
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