繭玉




 チラリ、と横に立つ背の高い人を見る。
 あまり上背のない白春にとって、彼の長身はうらやましい。寒がりでいつも背筋を丸めている自分と違い、すっと姿勢が良いのもうらやましい。どこかトロンとしている自分の顔と見比べ、端正に整っている顔もうらやましい。
「屑桐先輩は、かっこいいングですねえ」
「……?」
 何を言っている?と言いたげに首を傾げた無涯を見て、白春はひとつ溜息をついた。ついでに鼻をすする。
 ズズ、と音を立てて袖口で鼻を拭くと、無涯が無言でポケットティッシュを差し出す。ゴツゴツとして大きな手に、その妙に愛らしいポケットティッシュはいかにも不似合いだ。白春は小さく笑った。
「何を笑っている。これで鼻をかめ」
 言葉はぶっきらぼうでも、無涯の声は優しい。
 聞いていて耳に心地よい声というのはこういうものだと思いながら、白春は素直にティッシュを受け取った。
 二枚抜き取り、チーンと鼻をかむ。
 その様子を見て、ようやく無涯は満足したように腕組みをして前を向いた。
 目の前で繰り広げられているのは、野球部の入部テストだ。
 埼玉の王者として名を馳せているこの野球部に、入部を希望する者は毎年呆れる程の数だ。無論、その中で本当に使い物になる選手など、ほんの一握りしかいないのではあるが。
 去年は自分もくぐり抜けたその試験の様子をぼんやりと眺めながら、白春はまたすぐに垂れてきた鼻を袖口で拭った。
「今年は何人くらい入る"んでしょうね"え」
「さあな……重要なのは、何人入るか、でなく何人残るか、だ」
「あ"ー……」
 なるほど、と白春は頷いた。自分が新入部員だった去年も、練習の過酷さに耐えきれずやめていく者は後を断たなかった。肩を落として去って行く元チームメイト達を見る度に、白春は不思議に思ったものだった。

 ――こんなに楽しいのに、何でやめるング?

 練習が厳しい、辛い、もう嫌だ。そう言う連中の言葉を聞き、白春はますます不思議になった。
 厳しいのは当然だ。強くなる為に必要な事。けれど、それ以上に野球が楽しいからやっているんじゃないか。
 その疑問を、一年生だった白春は、ひとつ上の無涯にぶつけてみた事がある。
『先輩、どうして皆、やめちゃうングでしょう?野球が楽しくな"いングですか?』
 練習試合の帰り道だった。バットやグローブを詰め込んだ重くかさ張るバッグを肩に、夕暮れの道をただ歩いて行く。試合は当然、華武の勝利。けれど白春の胸はどこか重かった。一緒に入部したチームメイトの数は、既に三分の一に減っていた。
『……半端な気持で続けられるほど、うちの部は甘くない』
 静かな声でそう返された。見上げれば、無涯の目はいつものようにどこか遠くを見つめている。何を見ているのか、どこを見ているのか……誰を見ているのか、わからぬ瞳。
『楽しいだけではないからな。楽しければその分、辛い事も多くなる。それを補って余りある程に野球が大事だという人間でなければ、華武で野球は続けられん。そうだろう?』
『……先輩は、野球が大事ングですか?』
『どうした、白春。お前は違うのか?』
 逆にそう問いかけられ、白春はほんの一瞬、言葉に詰まった。
 違わな"いです。
 そう答えようとした瞬間、無涯の目元がふ、と和らぐ。
『お前も野球が好きで仕方ないんだな』
 わかっている、と言いたげに穏やかに微笑んだその時の無涯の表情を、白春は今でも忘れる事ができずにいる。



 なんとはなしに思い出に浸り込んでいた白春の耳に、小気味良い音が飛び込んで来た。
 金属バットがボールを叩く、高い金属音。
「ふん」
 隣で無涯が小さく鼻を鳴らした。
「……どうしたングですか?」
「今年の一年は、なかなかいいのがいるかも知れんぞ」
 唇の片端だけを上げ、無涯は組んだ腕をほどきグラウンドを指差した。その指が示すまま、バッティングの試験を行っている光景を眺め、白春は首を傾げた。見ていなかったとはとても言えない。
「キレのあるバッティングをする奴だ。あれは、受かるな」
 楽しみだ。
 そう言葉を落とし、無涯は踵を返した。元々、二、三年生は今日は部活動は休みという事になっている。たまたまふたりが試験を見物しに来ていただけの事。この場に居ても用はないのだ。
 慌てて無涯の後を追った白春は、彼が気にした新入生を見ようとグラウンドを振り返った。
 バッターボックスに、独特のフォームでバットを構える姿が見える。マシンから飛んで来たボールを綺麗に捕らえ、そのまま打ち放った。ボールを真芯で捕らえた時特有の、高く澄んだ音が響き渡る。
「あ"ー、いいカッキーングですね"」
「試合ならばホームランだな。あの球は」
 そう言う無涯の顔がひどく嬉しげで、それを見た白春もなんだか嬉しくなってくる。
「いい一年が入るといいですよ"ね」
「そうだな……白春、鼻をかめ」
 またもや見兼ねたらしい無涯が、カバンの中からポケットティッシュを取り出す。先程もらったティッシュは今は白春のポケットの中なので、これはまた別のティッシュのようだ。
「……屑桐先輩、ティッシュをたくさん持ってるングですね"」
 不思議そうに問いかけると、無涯は憮然とした面持ちで更にもうひとつティッシュを出してきた。
「お前がティッシュを持ち歩かないからだろう」
 ほら、これも持っていろ、と手渡され、白春は嬉しさに顔が緩むのを抑える事ができなくなった。自分用にティッシュを持ち歩いてくれている、その優しさがどうしようもなく嬉しい。
「何を笑っている」
「何でもな"いです」
 知っている。部室に置いてある、白春専用のボックスティッシュも、用意しているのは無涯だ。練習試合の時、白春の膝に無言でボックスティッシュを置いてくれるのも、もちろん無涯だ。
 無涯の優しさは、まるで小さな囁き声のようだ。
 そう思い、白春はもらったティッシュをポケットに詰め込んだ。パンパンに膨れたポケットは、中に宝物でも入っているかのように暖かな気持にさせる。
 耳を澄まさなければ聞き取れない囁きのように、無涯の優しさはさり気なく、穏やかだ。
 それをひとつひとつ拾い上げるように胸に抱き込めば、白春をほんわりと幸せにしてくれる。
 あの時に与えられた穏やかな微笑みと同じに、柔らかな光をまとって彼の胸にそっと火を灯す。穏やかで、優しい光を。

 ――あ"ー、屑桐先輩の後輩で、ほんとに良かったング

 幸せだな"あ。
 聞きとれぬほどに小さな声でそう呟くと、緩みっぱなしの顔で無涯を見上げる。
「どうした、白春」
「何でもな"いです」
 ズ、と鼻をすすりながら答えれば、やれやれといった調子で無涯がティッシュをもうひとつ取り出した。

 ――い"くつ持ってる"んだろう

 カバンの中身を見せて欲しいと思いながら、白春はこらえ切れぬ嬉しさに、声を立てて笑った。
 帰り道はまだまだ長い。
 あといくつ出してくれるか数えてみようと、膨らんだポケットを上からそっと手で押さえ、白春はほんわりとした気持のままに声を立てて笑い続けた。


だって白春、練習試合の間ずーっと無涯の隣の席をキープしてるし、
なんかティッシュボックスはお膝にのってるし、
あれは絶対ムガたんが置いたに違いないし
ていうかぶっちゃけ、
ムガたんは白春のハナミズが気になり過ぎてティッシュ買ってると思う。
スーパーの特売日に。

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