柔らかな風がグラウンドを吹き抜けていく。
五月。陽射しは心地よく眠気を誘い、風はさらりと乾いて肌を撫でる。
広いグラウンドの片隅でそれに身を任せながら、芭唐は手にしたバットをグルリと回した。
――つーか、全体練習終わったっつーの
視線の先には、片隅で投球練習を始めようとしている無涯の姿だ。他にも幾人かの熱心な部員がそれぞれにグローブやバットを手にしている。
日曜だからと言って、華武高野球部は必ずしも休みではない。
朝から午後までの練習が行われる事がほとんどだ。無論、それに異を唱える者などいる筈もない。菖蒲監督に一言『この程度の修行にも耐えられぬ輩に、華武の名を語る資格は無き故』と退部を申し渡されてしまうからだ。
先週の日曜は、珍しく練習がオフだった。だからこそ、芭唐があんなところであんな事をしでかし、よりによって無涯に見とがめられるという間の抜けた事態が起こった訳だが。
今となっては芭唐にも、それが良かったのか悪かったのか、わからない。確実に言える事は、彼の中で育っていた無涯への何がしかの想いは、情慾という新たな色を与えられてしまったと言う事だ。惨めさと嗜虐心とに彩られたそれは、芭唐の胸だけを妙に痛ませ、締め付けていく。
じくりと疼く痛みを溜息と共に風に流し、芭唐はフラリとグラウンドの片隅へと歩いて行った。
「屑桐先輩、まだ練習ッスか?」
「ああ、今日は自主練習をして行こうと思ってな」
「せっかくの日曜なのに、さっすがですよねー」
チクリ、と嫌味を交えたようなセリフに無涯は首を傾げた。
「日曜だからこそ、自主練習だ。普段の練習日には、そこまでやり込めんからな」
「はあ」
「御柳、お前もバッティング練習か?いい心掛けだ。これからしばらく練習試合も続く事だ、頑張れよ」
「練習試合たって、相手、雑魚じゃねーですか。んーな、一生懸命になる事もないっしょ?」
噛み続けるガムの匂いが甘ったるい。
「練習をするのは、相手の為じゃない。自分の為だろう」
「はあ」
「常に己自身を高める努力を惜しむな、御柳」
オノレジシンヲタカメルドリョク。
まーた、それ何語ッスか?と心の中で笑い、けれどそういう無涯だからこそ、目を惹かれて止まないのだと自覚している自分がいる。かすかに自嘲し、ふと目を上げた。
すぐ側に立つ無涯の汗の匂いに、身体中の毛穴が開くかのような感覚を覚える。
はっきりとした、欲情。
この汗の匂いを別の場所で、思う様胸に吸い込みたいと唐突に思い、芭唐はちろりと唇を舐めた。
「屑桐先輩」
「……何だ」
「今日、オレんち来ませんか?」
無涯の瞳がス、とそらされる。芭唐の目に浮かんだ色から逃れたいかのように。
「今日は自主練習だと言っただろう」
「だーから、それ終わった後でいいッス。オレも自主トレしますから」
ね、と改めて顔を覗き込む。そらされた視線に割り込むように目を合わせ、目元だけで笑ってみせた。
悪戯な猫の子のようなその顔付きに、小さく無涯の眉が寄る。何事か言おうと唇を開いた時、遠くからふたりに声がかかった。
「おい、御柳、いい加減にしろよー。ヒマなてめぇと違って、こっちはこれから投練やるんだっての。いつまで屑桐サンに絡んでんだよ!」
屑桐の相手をするべく待機している、控えのキャッチャーだ。焦れたようにミットを叩き、話し続けるふたりを眺めている。
「やだなーセンパイ、絡んでねーですよ。話、すぐ終わるんでちょっと待ってて下さいねー」
軽薄な調子で答えを返し、無涯へと向き直る。真直ぐに伸びた背筋に一瞬見愡れ、すぐにその肌の触り心地を思い出したように顔を緩ませた。
「……生憎だが、今日は先約がある」
目をそらしたままに、無涯はかすかにそう返した。そのまま練習に向かおうとする腕を、咄嗟に芭唐が引き止める。
――何だよ、それ
「何それ、どーゆー事ッスか」
「言っているだろう。今日は先約があるんだ」
「あんた、オレの事バカにしてんのかよ」
低めた声で詰め寄れば、困惑したような顔付きで無涯が静かに見返してくる。何を言っているのかわからない、そう言いたげな、どこか幼い表情。
――わかってねーわけ?あんたホントに全然わかんねーわけ?
「ふざけんじゃねーぞ、相手誰だよ」
「御柳」
「言えよ」
「御柳、手を離せ」
「嫌だね」
低い声で押し問答するふたりに、自然、グラウンドの注目が集まる。止めに入ろうと誰かが動くのを察し、無涯は小さく首を横に振った。
「御柳、オレを困らせるな」
「もっと困れよ」
「いい加減にしないか」
目元をキツく吊り上げて怒気もあらわな芭唐を、無涯の声が静かにたしなめる。背中を撫で下ろすような、穏やかな声。その声音に、ますます芭唐の神経は逆撫でされた。
「るっせーな、知るかよ。相手誰だ」
「まったく、お前という奴は……」
今にも芭唐を引き剥がしに来そうな三年の姿を認め、無涯はそれを手で制す。彼らに何でもないと表情で示し、彼はそっと芭唐の目を覗き込んだ。怒りと苦痛とわずかな悲しみが渦巻く、その黒目がちの瞳を。
「どうした、何を怒っている?」
「わかんねーのかよ」
「わからん」
「ハッ、やってらんねー」
掴んだままだった無涯の腕を放り出すように離し、芭唐はつま先で地面を抉った。
無涯の顔など、今は見たくもない。
けれど触れたくてたまらない。
「今日は、録の家で来週の対戦相手の研究をする。向こうの打者に、少し気になる選手がいるからな。……お前も来るか?」
「何だよそれ……」
「どうするんだ、御柳」
――何それ、先約ってそれかよ。研究?そんだけなワケねーじゃん
そう思いつつ、それだけじゃないのなら自分を誘う訳がないとも思い、もはや自分では判断すらできない。奇妙な悔しさが胸に渦巻き、芭唐はもうひとつ、つま先で地面を蹴り飛ばした。
「もーいーッスよ、オレ帰ります」
「……そうか。対戦相手の分析は、大事だぞ。今度はお前も……」
「ハッ、雑魚相手にンなもん必要ねーっしょ」
「御柳、さっきも言っただろう。全ては相手の為でなく、自分の為だ」
生真面目にそう返してよこす顔を見ずに、芭唐は唇を噛んだ。
腹が立つ。腹が立つ。
反吐が出そうだ。
この憤りが何に対するものなのかもわからぬままに、彼はくるりと踵を返した。さっきまでのかすかな高揚が、まるで嘘のようだ。胸に重苦しいものが垂れ込める。
「帰るのか、御柳」
「……お先シツレイしますー」
「明日も朝練だ。今日はよく休めよ」
背中にかけられた柔らかな声に、重苦しい胸は更に痛みを増した。
優しげな言葉など掛けるなと、意地を張る子供のように唇を引き結ぶ。
大股にグラウンドを横切って行くと、視界の端に、録と白春がこちらを伺っているのがちらりと見えた。
――見てんじゃねー
録の家で、の言葉を思い出し、芭唐はますます不機嫌になった。バットを放り出し、グラウンドを後にする。背中に無涯の視線を感じたような気がしたが、気のせいだろう。或いは明日、バットを片付けなかった事を怒られるかもしれない。
構うものか。
ユニフォームを着替える事すら、今の芭唐には面倒だった。
白春がズズ、と鼻をすする。
隣の録をちらりと見れば、あからさまに気分が悪いという顔付きだった。
「何の話してたングかな"?」
「知らね。つーか御柳ムカつく気〜 (-"-)」
グローブを弄びつつ、録が苛々と言い放つ。グラウンドから出て行く芭唐を見送りながら、ぶつぶつと文句のつけ通しだ。
「あ……バット放り出しングよ」
「マジあいつ何考えてんの? (-_-#)」
理解できな気、と呟いて録は視線を無涯に移した。
まだ投球練習を始めていない。芭唐が投げ出したバットを拾い上げ、ひとまとめにされたバットの中へとそれを突っ込む。グローブを外し、彼はスタスタとこちらへやって来た。
「屑桐さん、御柳の奴、何だったんですか?
(・ε・)」
「いや、今日の研究に誘ったんだがな。断られただけだ」
「はぁっ?! (`A´)」
今度は録の顔が険しく歪んだ。
――研究に誘ったあ?
無涯を家に連れ込む為の算段として、録が必死で対戦相手のビデオを手に入れたというのに、どうやら彼はそれを全くわかっていないようだ。
――な、泣ける気……まあ、わかってなくてちょうどいいんだけど……
録の小さな溜息を聞き咎めたのか、無涯は慌てたようにフォローを入れた。
「オレの誘い方が悪かったんだろう、すまんな、録」
「や、そうじゃなくて…… (-_-;)」
「お前がせっかく手に入れてくれたビデオなのに……ああ、そうだ。白春、お前は来ないのか?」
「行き……」
たいング、と続けようとした言葉を白春は飲み込んだ。こちらを邪気の無い様子で見つめる無涯の後ろから、殺気立った視線を感じたからだ。
来たら、殺す (^_^)b
目だけでそう宣言され、白春は鼻をすすった。
――屑桐先輩と一緒に居たいングは、録だけじゃないングよ"う……
しょんぼりとうなだれ、小さな声で無涯に答える。
「きょ、今日は用事があ"って行けないングです」
「……そうか、お前もダメか……残念だ」
「屑桐さん、いいじゃないッスか!今日は二人で研究しましょうってー
( ̄ー ̄ )」
録は内心でニヤリと笑って無涯の広い背を叩いた。そうだな、と呟いた無涯はそのまま投球練習をしに定位置へ戻って行った。
「……録、ずるい"」
「聞こえねー (-_-)」
「俺だって屑桐先輩と一緒に試合の対策立てたいングよ"」
「ビデオ手に入れたのは、俺だもんねー (>m<)」
ずるい"、ともう一度呟き、白春は長い袖口で鼻を拭いた。季節を問わず巻いたままのマフラーが、柔らかな風になびく。
ずるい"ーずるい"ーと言い続ける白春を置いて、録はグローブをはめてさっさと走り去ってしまった。無駄な事に時間を使っている暇はない。何と言っても、今日はこの後お楽しみが待っている。
――御柳、ね
あいつも可哀想に、と心のどこかで同情した。自分と同じように、無涯に執着し始めた者の匂いを感じたからだ。おそらくはこれから、己を決して見る事のないあの瞳に、いっそ憎しみにも似た感情を抱くようになるのだろうと思い、録はゆるく唇だけで笑う。
――可哀想な奴。……て、俺もか
自嘲を含んだ苦い笑いに、自分でもおかしくなる。己自身も哀れだと、言い聞かせるように呟いて。録は帽子を深く被り直した。
草の匂いのする柔らかな風が頬を撫でる。
風の吹くままに頬を嬲らせ、録はそっと空を見上げた。無涯の瞳のように、どこまでも澄んで広がるその青空を。
|