消えて儚き泡雪の




 華武高野球部には、鉄の掟がある。
 そのうちのひとつが、男女交際の禁止だ。今どき、よくこんな時代錯誤な規則が残っているとは思うが、部員全員、それを忠実に守っている。規則違反がバレれば、即、退部の扱いになるからだ。
 第一、時代錯誤と言うならば、監督といい部員といい、時代を五百年ほど間違えたのではないかというノリなのだ。時代錯誤こそが華武高野球部の売りと言っても過言ではない。
 甲子園常連組の華武高校に、不祥事は御法度。不祥事を未然に防止する意味と、野球以外のものに関心を向けさせない意味と。その両方から、男女交際禁止は重く厳しい鉄則として、野球部に君臨し続けていた。





「わかったか、御柳」
「だからー、付き合ってねーです」
 ファミレスの安っぽいソファにだらしなく座り、芭唐は相変わらずの気の抜けた口調でそう訴えた。テーブルを挟んだ向いには、少し困ったような怒ったような表情の三年生。背筋を伸ばして椅子に腰掛け、静かにこちらを見つめている。
「真面目な話をしているんだ」
「屑桐先輩、オレの話聞いてくれてないっしょー」
 ガムをぷーっと膨らまし、芭唐は天を仰いだ。野球部に入部し、まだ一月足らず。高校生活も、同じくらい。そこで見つけたものの中で、この三年生が一番、彼の興味を引いた。野球一筋に思いつめた瞳。時折、それがどこか遠くを見つめ、捕らえ所なく揺れている。外見にそぐわぬ妙な生真面目さといい、折り紙遊びを愛する幼さといい、そんなアンバランスさが芭唐の目を惹き付けて止まない相手だった。

 ――やべぇよなー

 呑気な顔付きとは裏腹に、内心で芭唐は冷や汗をかく。もちろん、今問いつめられている事はどうでもいい。いくらでも言い抜ける自信はある。
 問題なのは、こうして差し向いに腰掛けて、無涯をまともに見つめ返せない自分の心情だ。
 あんた、相手はあのクズキリさんだよ?と己に向かって突っ込みを入れてやりたい。心臓が妙にうるさく鳴っている事すら、軽い屈辱だ。

 ――興味あるだけだろ。妙な気起こすなってーの

 幾度も己に言い聞かせ、包み紙にガムを吐いた。
「御柳。お前には自覚が足りん。お前は既に我が華武高野球部に無くてはならない存在だ。それが規則違反とは、一体どういうつもりだ?」
「だからー、屑桐先輩、オレの話聞いて下さいって。全然、付き合ってるとかじゃねーです。ゆうべ、たまたま声かけられて、ちょっとヤっただけッスよ」
「……それは、どういう事だ?」
 心底、理解できん。そんな風情の無涯に、芭唐は頭を掻いた。
 ゆうべコンビニ行く途中で、後腐れなさそうなちょっと美人のおねーさんに声かけられたんで、ついついそのままラブホ行って一晩みっちりやりまくって何故かお小遣いまでもらって、ホテルから出て来たところであんたにバッタリ出くわしたんです。名前も知らないから、ほんとに後腐れはないと思うんですけど。
 そう言ったら、どんな顔をするのだろうかと考える。呆れるのか、笑うのか、或いは今のように理解できないという顔をしてみせるのか。
 全く予想が出来ないままに、芭唐は少し尖らせた唇を開いた。
「えーと、だから、誘われて、ついてって、うっかりやっちゃっただけッス。もう会う事もねーと思うんで、付き合ってるとかでは、全然ねーですよ」
「……」
 眉間にしわを寄せて黙ってしまった無涯を、上目遣いにちらりと見上げる。やばかったかなーと呑気に考え、退部うんぬんよりも無涯の心情を考えている自分に苦笑する。

 ――なんか、気にして欲しがってんじゃねーの、オレ

 いやいやまさか、とその考えを否定して、芭唐は新しいガムを口に放り込んだ。目の前に置かれたコーヒーには、未だ手を付けていない。

 ――怒ってんのかな、呆れてんのかな。全然読めねー

 いっそ、みっちりとお説教でもしてもらって、それで終わりにして欲しい。腕組みしたまま難しい顔をしてどこか遠くを眺めている無涯にちらちらと視線を送りながら、芭唐は小さな溜息をついた。
「……つまり、お前はあの女性を性欲処理に利用したという事か?」
「はあっ?」
 セイヨクショリニリヨウ。
 何語だ?と芭唐の口が開く。フルーツ味のガムの匂いがふわん、と辺りに漂った。
「見ず知らずの女性と、一晩限りの関係を持ったという事だろう?」
「あー……まあ、そーなんすけど、でも向こうだってそのつもりだったワケで……」
「御柳」
「はあ」
「きちんと避妊はしたのか?」
「はああっ?」
 キチントヒニンハシタノカ。
 な、何語だ?つーか何でこの人にそんな事まで聞かれんだ?噛んでいるガムを口から落としそうな勢いで、芭唐の口は開いたままだ。
 日曜の真っ昼間のファミレスで、何故、クズキリムガイに昨晩避妊したか否かを問いつめられねばならないのか。先輩!中二んときに怖い目に合ってから、オレはゴム着ける派です!とか爽やかに宣言しなきゃいけねーのか?野球部ってのは、そういうとこなのか?
 ぽかんと口を開けている芭唐をどう思ったのか、無涯はキュっと眉間のしわを深くした。
「……御柳、さっきも言ったが、うちの部に不祥事は御法度だ。お前ひとりの行動が、部内全体に迷惑をかける事もある。その事を少し自覚しろ」
「はあ」
 スンマセンでした、と口の中で呟く。何も街中で派手なケンカをしただとか、追っ掛けのバカ女に手出して孕ませたとかじゃねーっしょー。そう言い返したいような気もしたが、さっさとこんな馬鹿な話は終わらせてしまいたかったのだ。
 滅多にない休日だ。
 それを、偶然とは言え無涯と過ごしていられるのだから、もう少し有効に使いたい。
「若さゆえに暴走する事もあるだろうが……自分で処理する訳にはいかないのか?」
 すっかり話が終わったつもりでいた芭唐の耳に、重苦しい声が忍び込む。目を上げれば、どこか思いつめたような顔付きの無涯が、じっとこちらを見つめていた。

 ――自分でって、マスかけって事っすかね

 いや、あの、マスかくのとセックスすんのは、全然別モンなんスけど。いや、つーかだから、何でオレはクズキリさんにこんな事まで問いつめられてんだ?先輩!オレ昨日これで三回抜きました!とか爽やかに宣言しなきゃいけねーのか?野球部ってのは、そういうとこなのか?
 つーか、まさかこの人、童貞かよ?

 ――いや、まさかそんな訳ないっしょー

 そう思いつつも、それでも不思議はないかもな、と芭唐は思う。野球しか見えていないようなこの人ならば、そうであってもおかしくはない。
 むしろ、そうだといいのになんて心のどこかで考える自分に気付き、彼は心の中で首を振った。
 やばい。
 何がやばいかは大体わかっているが、あえて目を向けたくない。そのくらい、やばかった。
「御柳、どうなんだ?」
「じゃー先輩はどうな……」
「今はお前の話をしているところだ、御柳」
 芭唐の言葉を遮り、無涯はきっぱりとそう言ってのける。自分を見つめる真剣なその瞳に、芭唐はつい、と視線をそらす。
 見つめ返したら、危険だ。
 己を支配し始めているこの感情に、付ける名前を知ってしまう。
「ま、ぶっちゃけ、そりゃ無理っしょー。先輩だって男なんだから、わかるっしょー?」
「わからん」
 その返事を聞き、まだ甘ったるい味の残っているガムを、包み紙に捨てる。意味もなくスプーンでコーヒーをかきまぜ、また意味もなくスプーンを置く。

 ――わ、わかんねーのか、そうか

 冷静なふりで目をあげると、無涯は一瞬静かに両目を閉じ、意を決したように再び芭唐を見つめた。
「わからんが……ならば、その、オレが手伝うという事では、ダメか?」
「……」
「どうだ?」
「……は、はあぁぁっ?!」
 何を言われたのか理解できずに、芭唐は今日何度目かの失語状態に陥った。目を丸くして無涯を見れば、目元の辺りがかすかに赤く染まっている。どうやら、聞き間違いではなさそうだった。
「大声を出すな、他の客に迷惑だろう」
「はあ、スンマセン」
 気の抜けた返事をすると、芭唐は新しいガムを口に放り込んだ。一口噛めば、甘い匂いと味が口に広がる。
「手か…口か。……その、それでもダメならば、アナ」
「先輩!コーヒーのおかわりするっしょー?!」
 さっと手を上げ、ウェイトレスを呼ぶ。
 悪夢だ。
 そんな直接的な単語は聞きたくない。
 コーヒーのおかわりを注がれている間に、芭唐はちらりと無涯の顔を盗み見た。いたって真剣な表情で、相変わらず背筋を伸ばして椅子に座っている。綺麗に鍛え上げられた身体。曇りの無い、透明な瞳。
「……てか、先輩。本気で言ってんスか?」
「無論だ」
「えーと、もしかしてオレの事、好きとか?」
「いや、違う」
 あっさりとそう答えられ、芭唐の肩が小さく落ちた。
「だが、部内に不祥事の元があるのは困る……ならば、オレができるだけの事をしようと思うんだが、おかしいか?」
「……まさか、部員全員にこんな事してんじゃねーですよね?」
「バカな事を言うな、野球部員が何人いると思っている。……オレには理解できん。お前達が何故、野球を第一に考えないのか」
 先程まで混乱しきっていた芭唐の頭が、不意にスっと冷えた。

 ――お前『達』ね

 部員の内、何人かは無涯に触れる権利を持っているという事だろう。彼からこうして声をかけているのか、向こうから手を出してきているのかは定かでないが。
「ハハッ」
 芭唐の唇がひきつるように歪んだ。
 残酷な気分が腹の底から沸き上がり、あばらや喉にねっとりと絡み付いていく。
 オレだけじゃねーんだ、別に。オレが特別ってわけじゃねーんだ。
 あんたは、自分の大事な野球部の為なら、バカな女みてーな真似もするんだ。
 へえ、そう。

 へえー、そう。

「……ねぇ、屑桐さん。本気なんだよねぇ?」
 斜め下から覗き込むように、無涯の瞳を見上げる。どこまでも静かで澄んだその両目に、芭唐の苛立ちは更に増した。
 嗜虐心を煽る、ひどく綺麗な存在。
 劣情か欲望か、もはや己でも量りかねる衝動に負け、芭唐は歪めた唇からまたひとつ、笑いを押し出した。
「ハハッ、どうよ、屑桐さん」
「無論、本気だ」
「へえー、上等」
 上唇をことさらにいやらしく舐めながら、細めた瞳で無涯を眺める。
 真昼のファミレスの喧噪をどこか遠い世界の出来事のように耳にして、芭唐の指がテーブルを滑った。
「出るよ、屑桐さん」
「……どこへ行くんだ」
「オレんち」
 当然のようにそう口にして、芭唐は絡み付くような視線で男を嬲る。
 今日まで胸の奥でゆっくりと育てられた感情は、名を付けられる事もなく踏みにじられた。暖かく柔らかなそれを思い、芭唐は小さく唇の端で笑う。

 ――バカみてー、オレ

 本当に、バカだ。そして、無涯も、バカだ。
 暖かな淡い感情は、どす黒い欲望と嗜虐心に塗り込められてしまった。けれどこの残酷な気分をどうする事もできず、芭唐はただ、目の前にいる無涯を思う。
 この身体を組み敷き、追い立て、思うさま貪ってやれば、いくらかは気が晴れるだろうかと。
 或いは、今よりも惨めになるのだろうかと思い、泣き出す寸前のように顔が歪む。
 伝票を手にレジに立つ無涯の後ろ姿が、芭唐の視界の中でゆらりと歪み、にじんで溶けていった。






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