満ちぬ指先




 初夏の陽射しはきつ過ぎず、かといって間抜け過ぎず、ちょうどいい熱さで肌に降り注ぐ。
 昼休みももう終わりかけた時間になって、芭唐はひょっこりと屋上に顔を覗かせた。目的はただひとつ。そこにいるであろう人物だ。
「……やっぱ、いた」
 鍵が壊れかけ、すっかり立て付けの悪くなったドアをどうにかこじ開けて、その隙間から屋上へと身を滑り込ませる。いつ来ても不思議だが、無涯はどうやってこのドアを開けているのだろう。自分と同じようにこじ開けているのだろうかと思うともなしに思いながら、芭唐は彼の方へと歩いて行った。
「屑桐先輩」
「何の用だ」
「や、別に用ってほどの用ってわけじゃねーッスけど……」
 視線も寄越さず素っ気なく返された返事に頭を掻き、芭唐は所在なげにガムを膨らませる。
 特に用があると言う訳ではない。
 何となく顔が見たくなったので、部活の時間まで待たずに顔を見に来ただけの事だ。三年の教室を覗いてみたら、どこにも姿が見当たらなかった。だからもしかすると屋上にいるのでは、と当たりを付けて来てみた訳だ。
「……?」
 不思議そう、というよりは怪訝そうな顔付きで芭唐を見上げ、彼は紙飛行機を折る手を止めた。
「もう、昼休みも終わるぞ」
「知ってますよ」
「用がある訳ではないのか?」
「そう言ったっしょ」
「それなのに、探していたのか?」
「……悪いッスか?」
「いや、別に悪くはない」
 悪くはないが、不可解だ。そう思いつつ、無涯は再び紙飛行機を折り始めた。
 山折り。
 山折り。
 谷折り。
 谷折り。
 再び山折り。
 静かにきっちりと、その折り目だけを追い掛ける。この単調な繰り返しは、いつだって無涯の心を落ち着かせ、しんと静かに和ませてくれる。
 たった一枚の紙が、花になり、鳥になり、或いは小さな飛行機になる。
 出来上がった紙飛行機を眺め、無涯はうっすらと微笑んだ。
 綺麗な形に出来上がった。
 きっと、風を掴んでよく飛ぶだろう。
 満足げにいくつもの方向からそれを眺め回し、ひとつ息をついて無涯はふ、と顔を上げた。
「……まだいたのか」
「あ、あんた!そりゃないっしょー!」
 あまりの言われように、芭唐の口からは情けない声しか出ない。折り紙をしている時は完全に無視されるというのは、いつもの事ではあるが。言うに事欠いて『まだいたのか』とは、一体どういう言い草か。
「まだいたっつーか、たった今来たばっかじゃねーッスか!屑桐さん、ほんとひでーッスよ」
「む……そうか、悪かった」
 悪かったと言いながら、無涯の手は辺りに散らばった折り紙を片付け始めている。芭唐を置いてさっさと教室へ帰る気十分な様子だ。

 ――あんたを探してたって言ったっしょ!

 確かに特に用があったわけではないが、それでも会いたくて探しに来たのだ。そこに何かを感じてくれたりは……。
「しねーんだろーなあ……」
「何がだ?」
「何でもねーッス。ヒトリゴトですー」
 つまらなさそうにそう呟き、芭唐はちぇっと小さく舌打ちをした。そんな彼を眺め、おかしな奴だと無涯は首を傾げる。まったくもって、この後輩の考えている事は無涯にはわからない。わかろうと思っているわけでもないが、それにしても行動のいちいちが不可解だと、彼はいつもこの男が不思議でならなかった。
「お前も早く教室に帰れ。授業が始まるぞ」
「え、えぇっ!ちょっと、先輩!オレがやっと探し当ててここまで会いに来たのに、まさか教室帰っちゃうんですか?!」
「もう予鈴が鳴る」
「え、つーか……えっ?」
 さっさと立ち上がり、よどみない仕草で屋上のドアへ向かおうとする後ろ姿に慌て、芭唐は咄嗟にその腕を掴んで引き止めていた。振り向いた無涯の顔は、無表情ながらもどこか訝しげだ。
「……何だ、この手は」
「えっと、あの……」
「む……まさか貴様、授業をさぼるつもりではないだろうな?許さんぞ」

 ――で、出たー!

 見た目と違って存外に生真面目なその性格も、確かに芭唐が気に入っている……もっと言ってしまえばとても好きな、そう、とても好きな要素のひとつではあるのだが。

 ――でもさあ……今日はあんたの顔が見たかったわけだし、部活の時間までおあずけは嫌だったわけだし、まあもう見れたっちゃー見れたんだけど、だからっつってこんなほんとに一瞬しか顔見れねーなんて冗談じゃねーわけッスよ

 教室へ帰っても、そこには無涯はいないのだから。
「さ、さぼりじゃねーッスよー」
「では、きちんと授業に出ろ」
「あっ……」
 掴んでいた腕はあえなく振払われ、再びくるりと向けられた背中を、芭唐は捨てられた小さな猫のようなどうにも中途半端な顔付きで見送る事しかできない。
 自分の手と、去って行く背中と。
 ふたつを交互に見比べ、何か言わなければと口を開く。

 ――あーもう、何かこの人引き止める口実、ねーのかよ!

 普通に『一緒にさぼりましょーや』と言って、素直に頷く相手ではない。まして、強引な手や泣き落しが通用するとも思えない。
 何をこんなに必死になっているのかと自分でもおかしくなりながら、芭唐はガクリと膝を付いた。
「あ、いってててて……」
 派手に声を出してうずくまってみせる。屋上のドアを開けた無涯が足を止めるのが目の端に映り、伏せた顔のままにニヤリと笑みを浮かべた。
「いてぇー……」
「……どうした、御柳?」
「せんぱぁい、ハラ痛いッス……」
 情けない声を出せば、無涯が早足でこちらへ戻って来る足音が聞こえる。内心で拳を天に突き上げつつ、芭唐はうずくまったままで演技を続けた。
「どうした、腹が痛いのか?」
「いてぇッスー……」
「立てるか?御柳。保健室へ……」
 背中に回された腕にうっとりとしながら、芭唐はうつむいたまま、無涯の袖口をぎゅっと掴んだ。ここで逃がしてしまっては元も子もない。
「動きたくねーんスよ、先輩。ここでちょい、休ませて……」
「む……だが御柳、そんなに痛むのなら、診てもらった方がいい。何か急病だったらどうする」
「やー、これ、ただのハライタだと思うッス」
 そんな芭唐の声にかぶさるように、午後の授業開始を告げる予鈴が鳴り響く。掴んだ袖口は離さないままに、芭唐は上目遣いに無涯の顔を見上げてみせた。
 いつも静かな瞳がほんの少し気遣わしげに自分を見つめてくれている事に満足し、再びぱたりと視線を伏せる。卑怯な手だという事は承知していたが、こんな風にしなければ自分を見てくれない無涯にも非はあるのだと、そんな勝手な言い訳を胸の内でする。
「……御柳、本当に保健室に行かなくてもいいのか?」
「いいんです。それよか、今ちょっとここで一緒にいて下さいよ」
「だが、授業が」
 ほんの一瞬言い淀み、けれど己にしがみつく芭唐の手を見れば無涯にはそれ以上何も言えなくなった。小さな溜息をつき、そのまま芭唐の横に座る。

 ――……え?マジ?いいの?

 少しの意外さと、嬉しさと、そしてわずかな困惑。その三つが同時に胸に渦を巻き、罠を仕掛けたはずの芭唐本人を混乱させる。

 ――あんた、優し過ぎるつーか……少しくらい疑ってよ。じゃねーとなんかオレがワルモノみてーじゃねースか

 責任転嫁するようにそんな事を思い、ちらりと無涯を見上げれば、座った姿勢で芭唐の顔を覗き込んでいた。額に巻かれた布の下、色の薄い瞳が自分を見つめているのと視線が合い、芭唐は気恥ずかしさに目を細める。それをどう思ったのか、無涯は彼の額に手を当てた。
「え、なに……」
 その手が喉元へと滑り、何かを確かめるようにじっと当てられた。
「熱はないようだな。気分は悪くないか?」
「あ、はあ、大丈夫ッス」
「横になっていた方が良ければ、そうしろ」
 素っ気ない口調には違いないが、芭唐を見る彼の目はいつもよりも柔らかい。言葉に従い屋上にゴロリと横になり、芭唐は彼の足に頭を乗せた。
「……何をしている」
「膝枕、して欲しいんスけど」
「馬鹿者が」
 そう言いながらも、腿に乗せられた図々しい頭を無涯が振払う事はない。

 ――こーいう時ばっか優しいんだもんなー

 野球に対する姿勢の厳しさとは裏腹に、こういう時に見せる無涯の顔は案外と優しい。甘えたような事を言えば、渋々ながらも受け入れてくれるのだ。……芭唐が相手だと、甘えを受け入れてくれるのも、そう多くはないのだが。録や白春の甘ったれ方を見ていると、芭唐は時折うらやましくなる事があるくらいだ。
 それでもこうして、ほんの少しの優しさを与えられているという事は。

 ――フツーの後輩よか、ちょっとは大事にしてくれてるって事?

 どうなんだろ、わかんねー。
 小さく溜息を零し、静かなその顔を下から見上げる。端正に整った、凛とした顔立ち。すっきりと伸ばされた背筋は、今は屋上の柵にもたせかけられている。柔らかな風に嬲られて乱れるその黒髪を眺め、芭唐はどこか胸の奥がかすかな痛みを訴えるのにそっと瞳を閉じた。

 ――ハハ、嘘じゃなくなったじゃん

 痛むのは生憎と腹でなく、もう少し上、胸の辺りだったけれど。その辺りに手で触れて、芭唐はほんの少し自嘲気味に笑った。

 ――後輩とか、四番バッターとか、そんなんじゃなくさあ……

 ただ、特別な存在と思って欲しいのだと。こんな風に、必要ならば誰にでも与えられる優しさではなく、自分ひとりに向けられる優しさが欲しいのだと。どこか苦くそんな事を思う。
「あーあ……」
「どうした、御柳。大丈夫か?」
 耳に心地よい声が、不器用に問いかけてくる。声と共に与えられたのは、髪を撫でる大きなてのひらの感触で。犬か猫でも撫でるように、温かなてのひらが優しくゆっくりと芭唐の傷んだ髪を撫でていく。
 胸に染み入るようなその感触に、胸の奥にある柔らかな場所を掴まれたような心地になり、芭唐は不意に泣き出したいような衝動に駆られた。
 そんな芭唐の気も知らぬげな様子で、無涯はただ静かに傷んで荒れた髪を撫で続ける。泣き出しそうな顔を見られないように、芭唐は無涯の腿に頬を擦り付けた。制服の下、しっかりとついた筋肉がわずかに動く。それに指先だけで触れ、芭唐は小さな声を絞り出した。
「先輩、ごめん」
「何がだ?」
「ハライタ、嘘」
「……そうか」
「うん」
 ごめん。
 返された穏やかな声に再び泣き出したい気持ちになりながら、芭唐は風に紛れてしまいそうなほど小さな声で囁いた。

 ――あーあ……何でバラしちゃったんだよ、オレ。バカみてー。黙ってりゃ、屑桐さんもっと優しくしてくれたかもしんねーのに

 けれど、こんな風に優しいからこそ、言わずにはいられなかったのだと自分でも承知している。小さな囁き声のように純粋なこの優しさを、卑怯なやり方で手に入れるのは、何だか酷く良くない事のように思えるのだ。
「腹痛が嘘でも、何かあるんだろう?」
「……へ?」
「うちの弟達も、何か悩んでいる時には今のお前のように甘ったれる事がある」
 頭を撫でるてのひらは、止まる事なく柔らかに動き続けている。くすぐったいような切なさは胸苦しく、染み込んでくる邪気のない優しさが、いっそう芭唐のまぶたの奥をツンとさせる。

 ――悔しいよ、先輩。あんたは小細工も何もなしで、こんなにオレの気持ちをかき乱して、どーしょもなくさせる。そんでもって、オレにバカみてーに期待させるんだよ、あんたは

 悔しい。けれど、こんな風に心乱される事がどこか嬉しくもあり、芭唐は混乱した頭のままに小さく苦笑を洩らした。悩みなど、無涯に出会ってからは彼の事だけだ。いつだって頭の中は彼一色で、他の悩みなど入り込む余地もない。
「……悩んでなんか、ねーッス」
「そうなのか?」
「それも嘘。でも、今先輩に甘ったれたのは、悩んでるからとかじゃなくて……」
「どうした?」
 穏やかに問う声は、どうすれば自分だけのものになるのだろう。埒もなくそんな事を思う。
「ただ、先輩に側に居て欲しかっただけです。バカみてーな理由で、ごめん」
「まったく、お前は……」
 頭の上、小さな溜息が落とされるのが聞こえる。それでも、髪を撫でる手は外される事なく芭唐の髪を柔らかに撫で続けていて。
「本当にお前は、どうしうようもない馬鹿者だ」
 苦笑と共に零された言葉はどこか慈しむような響きを帯び、屋上を渡る風にさらわれる事もなく芭唐の耳に忍び込む。その声に誘われるようにちらりと視線を上げれば、無涯が薄く微笑みながら自分の顔を見下ろしていた。まったく、仕方のない奴だ。そう言いたげな表情で。

 ――あんたがそんな風に笑いかけてくれんなら、オレはどーしょもねーバカでいいッス

 滅多に見る事のできない無涯の柔らかな表情に見とれ、芭唐は静かに両目を閉じた。今の無涯の表情を、記憶に焼きつけるように。
「……うん、オレは、どーしょもねーバカなんスよ」
 だからあんたにこんなに溺れてる。心の中だけでそう続け、芭唐は髪を撫で続けるその手の感触にうっとりと吐息をついた。
 こんな風に優しくされている間だけはほんの少し、ほんの少しだけ、自分が特別扱いされているような錯覚に浸る事ができるから。
 今だけは嘘も小細工も抜きで、ただその幸福感に浸ろうと、芭唐は枕にした無涯の腿にそっと触れた。
「……本当に、大馬鹿者だな」
 仕方なさそうな、困ったような……そしてどこか愛しげな無涯の表情になど、当然気付く事もなく。
 芭唐は自分を撫で続ける手に身を委ね、いつの間にか眠りの淵に沈み込んでいった。





何もわかっていないうちのムガたんですが、
自分の気持ちに少しずつ気付き始めた頃のお話です。
こんな風に少しだけ優しくしてあげてほすぃー。
バカラんは馬鹿でいい。そして乙女ちゃんなので悶々と悩めばいいんだ。



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送