続・迷いの蜜




 荒い息を繰り返す無涯の身体を抱き締め、芭唐は彼の耳の下に唇を押し当てた。それだけの刺激にもびくりと身を震わせる彼が可愛くてならず、抱き締めた腕で柔らかくその髪を撫でる。地肌がほんの少し、汗で湿っていた。
 自身もまだ呼吸が整わないままに、甘えるようにして無涯の頬に頬を擦り寄せれば、彼の腕がゆっくりと上げられ、背から首筋へとなぞるように辿られる。後頭部を撫でるように指が伝い、芭唐のさらさらとした髪をゆるく乱した。
「オレ、あんたに髪触られんのすげー好き」
「……そうか」
「うん」
 幼子のようにこくりと頷き、無涯の指が自分の髪に触れる感触を目を細めて味わう。彼の髪を撫でていた芭唐の手は再び背中に戻り、その堅く熱い身体を抱き締め直していた。常よりも速く打っている心臓の鼓動を背中側からてのひらに感じながら、頬に唇を押し当てる。無涯の唇から、心地よさげな吐息が小さく洩れた。

 ――ああ、ほんと可愛いなあ……この人

 体格のいい高校男子には似つかわしくない言葉で目の前の彼を形容し、芭唐はもう一度その頬にキスを落とした。
 最近、彼の態度が少しずつ変わり始めたと、そう芭唐は感じる。
 例えばこうして肌を重ねた後に、柔らかく髪に触れて来たりだとか。決して口には出さないけれど、キスをしたがるようなそんな仕草をしてみせたりだとか。……事の後、少し照れたような顔付きをしてみせたりだとか。
 以前ならば決して考えられなかったようなそんな事が、少しずつ増えている。

 ――期待、しちゃうじゃん。そーゆーのってさ

 もしかして事によると、無涯も自分の事を少しは……なんていう淡い期待が胸に芽生えてしまうのは、芭唐ならずとも当然だろう。今はまだ、それを彼に問う事は出来なかったけれど。
「好きだよ、屑桐さん」
 返る答えのない言葉を舌に乗せ、ちゅ、と小さく唇にキスをする。髪をいじっていた無涯の指先がひくりと動き、すぐに離れようとした芭唐の頭を逃がしたくないとでも言うように、わずかに力が込められた。意外さに一瞬目を見開き、けれど嬉しさのままに芭唐は再び唇を重ねた。無涯の口の中は、いつだって熱く柔らかく心地よい。
「先輩てさ、意外とキス好きですよね」
「……そうなのか?」
「うん、最近は特に」
「自分ではわからん」
「そ?」
 目元だけで笑って、無涯の瞳を覗き込む。一瞬だけ視線が重なり、けれどすぐに無涯の視線は困ったように伏せられてしまった。
「……わからんが、確かに……お前の唇は心地良い。……と、思う」
「へ?」
 間の抜けた顔で問い返した芭唐を睨み付け、彼はきっと唇を引き結んだ。
「……え、今、なんて……」
 おっしゃいました?屑桐さん。
 脳と口とがうまく動かず、耳にした言葉が信じられないように芭唐はぱくぱくと口を動かす。無涯はふいと顔を背けてぐしゃりと自分の頭を掻いた。
「……帰るぞ、御柳」
「待って下さいよー!もう一回言ってくれてもいいっしょー?!」
「やかましい。二度同じ事は言わん」
 放り出したままだったタオルで残滓を拭い、目の前の芭唐に投げ付ける。投げられたそれをしっかりと受け取って、芭唐は必死に言い募った。
「一度も二度も同じっしょー?!ずりーっすよ!」
「ピーピーさえずるな。置いて帰るぞ」
「鍵持ってんの屑桐さんじゃねーっすか。置いて帰れるわけないね」
「む……」
 言葉に詰まった無涯は、着替えの手を止めてちらりと芭唐を睨み付けた。口の達者なこの後輩に、彼は言い合いで勝てた試しはない。ギシリ、と古い長椅子をきしませて芭唐がゆっくり立ち上がる。もうほとんど着替えを終えた無涯の腰に手を回し、自分の方へと引き寄せた。
「ね、言って下さいよ」
「言わん」
「ずりーっすよー」

 ――せめてそんくらい、言葉くれてもいいんじゃねーっスか?

 少しだけ唇を尖らせ、芭唐はふて腐れたように無涯の額に己の額を合わせた。
「ちょっとくらい嬉しがらせてくれたって、バチ当たらねーと思うんスけど」
「お前を嬉しがらせると、何かいい事でもあるのか?」
「次の試合で特大ホームラン打っちゃうかも」
「いつだって打っているだろう、馬鹿者が」
 目元を穏やかに和ませ、仕方なさげに無涯が笑みを浮かべる。それに見とれた瞬間、芭唐はギュッと耳を引っ張られていた。
「イテテ、痛ぇーッスよ!」
「さっさと着替えろ。もう遅い」
 放り投げるようにそう言われ、芭唐はぶつくさと不満を漏らしながら制服に袖を通す。二人分の体液を拭き取って使い物にならなくなったタオルは、帰り際に焼却炉に放り込もうと決めて、カバンを肩に引っ掛けた。帰り支度など、あっと言う間だ。
「へいへい、お待たせしましたー、屑桐せんぱ……」
 言いながら振り返ると、目の前に無涯の顔。
 硬直した芭唐に構わずに、彼はそのまま顔を寄せてくる。吐息が唇にかかった。そう感じた瞬間、かさついた唇が柔らかく触れた。
 一瞬で離れていったそれを呆然と見送り、芭唐はぽかんと無涯の顔を見つめ返す。
「……これが、心地良いと。そう言ったんだ」
 わかったなら、帰るぞ。
 素っ気なくそう告げ、無涯はくるりと踵を返した。明かりと戸締まりの最終チェックをして、ドアに手をかける。
 無涯のそんな姿をただぼんやりと見つめていた芭唐は、やっと夢から醒めたように耳まで赤くなった。
「えっ、ええええっ!」
「……やかましい。さっさと出ろ」
「先輩!もっかい!もう一回して!」
「馬鹿は死ね」
 冷たく言い捨てる彼の顔は、けれど目元のあたりが薄く朱に染まっている。それを見ながら、混乱した頭のまま芭唐は真っ赤になった自分の顔に両手を当てた。
 やべぇ、やべーって。
 幸せで顔が緩んでいく。
 もしかすると、ほんの少しくらいは期待をしてもいいのかもしれないと。
 馬鹿みたいに顔を緩ませたまま、彼はさっさと先に行ってしまった無涯の後を大急ぎで追い掛けて行った。





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