雫と消ゆる泡沫や




 あの男の、あの目付きが何よりも嫌いだ。
 どこを見てるんだかわからない、何を考えてるんだかこれっぽっちもわからない、あの目。
 いっそ馬鹿にしたような顔付きでもされりゃ、こっちだって少しは救われるってのに。
 あいつは、ただ静かにオレの顔を眺めるだけだ。
 なじるでもなく、嘲るでもなく、憐れむでもなく。
 ああ、いっそ殺してやりてぇくらいだ。
 なあ、屑桐。
 殺してやりてぇよ、お前を。





 その日はどんよりと曇った空が重苦しく垂れ込めて、今にも一雨来そうな空模様だった。
 雨が降るなら降るで勝手にしろと、オレは教室の片隅でだらしなく机に座り、窓の外を眺めていた。雨になれば部活は休みだが、筋トレくらいなら、勝手に体育館を使えばいい。他の弱小運動部なんざ、知った事か。どうせ全国大会どころか、予選の前半で名前が消えるような奴らだ。体育館なんて御大層な場所、使わせてやる必要もねぇ。
 ああほら、雨が降って来やがった。
 このクソ寒ぃのに。雪の方がまだましだ。いや、そうでもねぇか。まあどっちでも構やしねぇけどな。関係ねぇや。
「帥仙」
 ……鬱陶しい雨に、鬱陶しい男の顔かよ。
 クソ面白くもねぇ。
「おい、帥仙」
「何だよ」
「監督からの連絡事項だ」
 メモを片手に持った屑桐が、抑揚のない口調でそう告げてくる。
「ふ〜ん……で?」
「本日の部活は休止。明朝七時ちょうどに各グラウンドに集合との事だ。遅刻厳禁、時間厳守」
「へえ。まあこの雨じゃな」
「ああ。二軍の連中に連絡事項の伝達を頼んだぞ」
 二軍ね。ハハハ。
「わかってる」
「自主練習は自由だが、オーバーワークはもっての他だ」
「うるせぇなぁ」
「お前が一番心配だから言っている」
「一軍の奴らの心配だけしてろや、てめぇは」
 ああ、鬱陶しい。
 てめぇなんぞに心配されたら、ますますこっちはムキになるって事、わかってねぇのかよ?クソが。
「心配するのに、一軍も二軍も関係あるまい。大体お前は、自分の体力を過信し過ぎているだろう。筋肉が疲労したら、休めなければ意味がないという事をわかっているのか?」
「うるせぇ」
「そんな事では先が思いやられるな」
「うるっせぇよ!」
 怒鳴りつけ思いきり睨み付けてやると、ようやく屑桐は口を閉じた。大体こいつは、いつだってこんな風に小言を言いやがる。ああウザってぇ。
 他人の心配より、自分の心配でもしてろや。……心配するような事がねぇのかも知れねぇけどな。ムカつく野郎だ。
「……では、連絡事項の伝達を頼んだ」
 もうそれには返事をせずに、オレは屑桐から顔を背けた。屑桐は何だか知らねぇが、しばらくオレの机の横に突っ立ってやがったが、シカト決め込んだオレの様子に諦めたのか、溜息ついて教室から出て行った。
 溜息なんかついてんじゃねぇ。
 そーゆーとこがムカつくんだよ。
 授業開始のチャイムが鳴ったが、オレは腹立たしさのままに、机に突っ伏して寝たフリを決め込んだ。





 こんな雨の日で部活も休みなら、まあ、自主トレする奴なんて数えるほどしかいねぇ訳だ。着替えながら、オレはいつもより遥かに閑散としている部室を眺め回す。他校との対戦資料を読みに来ている奴だとか、これからオレと同じように筋トレでもするらしい奴だとか。ほんの少ししか人数はいない。
 予想はしてた事だが、その中に屑桐の姿を見つけて、オレはげんなりと着替えの手を止める。
 あー、クソ。
 帰りてぇ。
 でも帰るわけにいかねぇ。
 あいつがやるなら、オレはその倍やらなきゃなんねぇんだ。三倍でも四倍でも五倍でも。とにかく、あいつを追い越して見返してやるまでは、オレは死ぬ気で練習し続けなきゃならねぇ。そう決めたんだ。
 いつものユニフォームではなく、ジャージを着る。ちらりと屑桐の方を眺めてから、オレはさっさと部室を後にした。
 体育館の一角に設けられたトレーニングスペースは、案の定、他の運動部の奴らが使っている。レスリング部?ウェイトリフティング部?ハッ、インハイも予選落ちの奴らになんざ、使わせとく意味ねぇだろうがよ。
「どけや」
 マシンのひとつを蹴り飛ばし、使ってる奴に低くそう言葉をかける。
「あ?」
「どけっつってんだよ、雑魚が」
「あぁ?」
 何でこんなにイライラしてんのか、自分でももうわからねぇ。わからねぇけど、こっちはイラついてんだよ。その雑魚面さっさと引っ込めろや、クソが。
「てめぇ、野球部か。使わせて下さい、の一言も言えねぇのか?」
「へえ、それで?黙ってどけや、予選落ち」
「あぁ?!」
 小競り合いが始まりそうになった時。
 後ろから、落ち着いた声がかかった。
「すまん、芦沢」
「……ああ、屑桐か」
「うちの者が失礼な真似をしたな。すまなかった。こいつにはオレから十分に言って聞かせておく」
「あー……いいよ、お前が悪いわけじゃねぇし。部員の面倒見んのも大変だな」
「すまんな。ところで、今日はトレーニングエリアは、野球部の自主練習に使わせてもらう事になったのだが」
 そう言って屑桐は、一枚の紙切れを見せた。何だそりゃ。……使用許可書?ハッ、真面目なこって。
「そういう事なら、構わねぇよ。野球部が使ってくれ」
「色々とすまん」
「いいって。春の選抜も、期待してっからな。屑桐」
 何だよ、この野郎。屑桐にはえらく愛想いいじゃねぇかよ。
「ああ」
 屑桐がそう答えると、奴は部員達を引き連れてトレーニングスペースから出て行った。さっさとどけばいいだろうが。
「帥仙。何故わざわざ、もめるようなまねをする?」
「どかねぇあいつらが悪いんだろうがよ」
「いい加減にしないか。まったく、お前は変なところでプライドばかり高くて困る」
「うるせぇ」
 本当に口うるさくて嫌になる。ああそうだよ、あんな雑魚に頭下げるのなんか願い下げだね、オレは。バカバカしい。
 屑桐が溜息をついている。
 クソ、何だってんだ。
 ああ、腹が立つ。
 ……何から何まで、オレはお前に勝てねぇのかよ?





 トレーニングスペースから、ひとり二人と野球部員が消えて行く。窓の外はもう真っ暗だ。遠くで雷が鳴るのが聞こえる。
「帥仙さん、お先ッス」
「おう」
 律儀に声を掛けていく後輩に返事を返し、オレはちらりと屑桐を見た。黙々と腹筋を鍛えている。
 いいからさっさと上がれや、てめーも。
 小さな舌打ちをして、オレはダンベル・プレスを始めた。八回を二セット……いや、それじゃ足りねぇ。四セットだ。ああ、ラット・マシンが空いたな。ならこの後は広背筋でも鍛えるか。
 肌寒い季節なのに、額から汗が滴り落ちる。
 着ているTシャツはもうぐっしょりだ。当然と言やぁ当然か。もう何時間もこうやってトレーニングしてるんだ。ああクソ、替えのシャツ、持って来りゃ良かった。
「……まだ続けるのか?」
 突然かけられた声に驚けば、そこには屑桐が立っていた。もう、ジャージを着込んでいる。肩を冷やさねぇようにって?さすがだねえ、エースピッチャー。ダンベルを床に置き、オレは顔を上げた。
「そのつもりだけど?」
「ならば、体育館の鍵を置いておく。……なるべく早く、お前も上がれ」
「へいへい」
「先に部室へ戻るぞ」
「わかってるよ、うるせぇな」
 ぐるりと見渡せば、もうオレと屑桐以外に残っている奴はいなかった。オレに鍵を手渡した屑桐は、振り返りもせずに体育館から出て行く。
 ……そうだ、さっさと帰れや。
 心の中で呟いて、再びダンベルを持ち上げた。あと一セット。額からまた一筋、汗が滴って落ちた。





 結局あの後一セットこなし、ラット・マシン・プルダウンも二セットやり、最後に腹筋を鍛え上げて、オレはやっと満足して部室に戻った。当然、もう誰も残っていないもんだとばかり思ってたんだが……。
「……遅い」
 何でまだてめぇがいるんだよ、屑桐。
 冗談じゃねぇっつーの。
「ああ?」
「なるべく早く上がれと言ったはずだ」
「知るか。オレは自分の好きなようにやる」
「オーバーワークは禁物だと、何度言わせる気だ?」
「てめぇにゃ関係ねぇだろう!」
 思わず怒鳴りつけると、屑桐は一瞬、ひるんだように口を閉じた。無表情な顔で、眉が少しだけ寄っている。何で怒るのかわかんねぇってか?ああ、そうだろうとも。わかりゃしねぇよ、てめぇにはな。
 自分より『上』のてめぇに心配されるのがどんだけムカつくか、てめぇにゃ一生かかってもわからねぇだろ。他人の考えてる事なんざ、興味もねぇんだろうからな。
「筋トレの後、きちんと柔軟をしたか?」
「……あ?」
 怒鳴られたってのに、まだこれかよ?
 つくづく、おめでてー奴だ。
「お前はいつも、柔軟をきちんとしていないだろう。だから筋肉が硬くなるんだ。効率も悪い」
「おい、てめぇこそ何度同じ事言わせる気だ?てめぇにゃ関係ねぇんだよ」
「関係なくはない」
 まっすぐにオレを見ながら、屑桐はそう言った。
 曇りのない瞳。静かで、透明な眼差し。
 ……虫酸が走る。
「何が関係なくねぇって?」
「同じ野球部員として、お前を心配して何が悪い」
 ハッ、笑わせるんじゃねぇよ。
 『同じ野球部員』?
 一軍様と、二軍でくすぶってるオレとじゃ天と地ほどの違いがあるって事くらい、いい加減に気付けってんだよ。このクソ野郎が。一軍にいられなけりゃ、この学校じゃ意味ねぇんだ。エースピッチャーじゃなけりゃ、何の意味もねぇんだよ。
 オレの心配なんかするんじゃねぇ。
 そんな当たり前みたいな顔をして、オレを心配するな、屑桐。
 これ以上……惨めにさせるんじゃねぇよ。
「大体お前の近頃の不調の原因は、そのオーバーワークにある。自分でもわかっているんだろう?」
「……だから?」
「このままではお前は肩を壊す。お前はその程度の投手なのか?冷静さを欠いて自ら潰れるような……」
 その瞬間、ふつり、と頭のどこかで何かが切れた気がした。
 真っ白になった頭で、屑桐を殴りつけようと振り上げた手だけを意識する。
 耳の奥が熱く、視界さえもかすむようだ。
 ほんの一瞬だけ途切れた理性は、ガツンという衝撃と共にオレの頭に戻って来た。
「……あ?」
 歯が何かに当たり、唇には鋭い痛みと、ほんのかすかに柔らかな感触が残っている。目の前に、屑桐の顔があった。
 どういう事だ、こりゃあ。
 この顔を殴りつけるはずだった手は、しっかりと屑桐の肩をつかんだままだ。慌てて身を離す。
 明らかにオレは……。
「何を考えている、馬鹿者」
 さっきまで熱かった耳の奥が、急激に冷えた。
 心臓が破れそうなくらいに強く強く音を立てている。
 きっと今、オレの顔は赤くならずに青ざめているに違いない。
「オレ……は」
「……お前のせいで口が切れた」
 あろう事か。

 オレは、屑桐にキスしてしまっていた。

 ぶつけるように合わせた唇は、嫌と言うほど歯が当たったせいでじんじんと痛む。
 黙らせたかっただけだ。クソうるせぇ口を、閉じさせてやりたかっただけ。
 自分自身にそう言い聞かせ、青い顔のままオレは唇をねじまげて笑ってみせた。
「ハハ、そーゆー嫌な思いしたくなけりゃ、いい加減オレのやる事に口出しすんじゃねぇよ、クソが。オレはオレのやり方で、てめぇからエースの座を奪ってみせる」
 放り投げるようにそう言うと、屑桐がオレをじっと見つめている。切れた唇に指先で触れながら、いつものあの静かな目付きで。
 見つめられる事に耐えられず、オレはロッカーから自分の荷物を乱暴に取り出した。着替えなんてする気にもならねぇ。これ以上、一秒だって耐えられそうにない。
「……オレからエースの座を本気で奪う気ならば、自身の問題点をきちんと改善しろ。まずはそれからだ、帥仙」
 ああ、クソ!
 ここまで言ってんのに、まだこれかよ!
「うるせぇ!」
「オレはお前がどんなにうるさがろうと、お前の心配をやめるつもりはない。……お前も大切な野球部員のひとりだろう」
 ああ、うるせぇ。クソうるせぇよ、屑桐。
 目の奥が熱く痛み、オレは振り返らずに部室を飛び出した。外に出た途端、冷たい雨が叩き付けるようにオレに降り注ぐ。ああ、ジャージのままでちょうど良かったと頭のどこかすみの方で考えて、泥を跳ね上げながらオレはただひたすらに走り続けた。
 真っ暗な道。
 刺すように冷たい雨。
 心臓と同じ早さで痛みを訴える唇。指先で触れればちりりと痛みが走り、そこは当然のように切れて血を滲ませていた。
 切れた唇は熱を持ち、オレの馬鹿さ加減をあざ笑うかのように痛み続ける。顔中を伝い落ちる雨に紛れ目から滴る熱い液体が、その小さな傷口に酷く染みた。
 冷えて行く身体の中、唇だけがただひたすらに熱く、痛みを訴え続けている。この痛みは、まるで何かの罰だとでも言うように。





 あの男の、あの目付きが何よりも嫌いだ。
 どこを見てるんだかわからない、何を考えてるんだかこれっぽっちもわからない、あの目。
 いっそ馬鹿にしたような顔付きでもされりゃ、こっちだって少しは救われるってのに。
 あいつは、ただ静かにオレの顔を眺めるだけだ。
 なじるでもなく、嘲るでもなく、憐れむでもなく。
 いっそ殺してやりてぇくらいだよ、屑桐。
 ……いや、違う。
 本当は殺してやりてぇのは、オレ自身だ。
 クソみてぇにちっぽけなプライドにすがりついてる、オレを。
 ぶっ殺してやりてぇよ。
 なあ、ぶっ殺してくれよ……屑桐。
 指先で、切れた唇にそっと触れる。
 付いた血を舐め取り、何かを祈るように……オレは静かに目を閉じた。






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