誰かのおとぎ話




 初夏とは言え、夏の日は長い。
 いつまでも沈まぬ太陽が、じわりと室内に忍び込んでは空気をぬるく染めていく。
 その時間が、兎丸は案外好きだった。




「やった、ラスボス戦だよ!シバくん!こないだはさー、ここの手前でゲームオーバーになっちゃったんだよねー」
 アドバンスの画面を食い入るように見つめ、兎丸が弾んだ声を出す。
 その隣、同じように床に座り込んで本を読んでいた司馬は、ゆっくりと本から顔を上げ、左に座る兎丸へと顔を向けた。
「ねっ、シバくん!」
 画面から司馬へと視線を移した兎丸に、ふんわりと柔らかな笑みが返される。
「シ、シバくん」

 ――かっわいいなあ〜

 いつもいつも必要以上に饒舌な兎丸の口がぽかんと半開きになり、頬がうっとりと赤く染まっていく。可愛いと言うなら自分こそ、そう言いたくなるような容姿を持つ彼は、司馬の笑顔にめっぽう弱かった。
 いや、笑顔だけでなく、困った顔にも小首を傾げる仕草にも、とにかく司馬の全てに弱かったのだ。
「……も〜、シバくんてば……不意打ちだよ」
「?」
 すっかり赤い顔をして照れ笑いをする兎丸に、司馬は不思議そうに小首を傾げてみせる。
「ラスボス、倒しちゃうからね!待ってて、シバくん!」
 楽しげなその言葉にこっくりと頷き、彼は再び本に目を落とした。



 珍しく部活が早めに切り上げられた今日、兎丸はわがままを言って司馬の家までついて来たのだ。

 ――だってさ、少しでも長く一緒に居たいじゃん

 司馬の部屋でベッドを背もたれに、ふたり並んで床に座り込んで。兎丸はゲーム。司馬は読書。
 ひっきりなしに兎丸が喋り、司馬は頷いたり首を傾げたり。
 どうという事もないこんな時間も嬉しくて、兎丸の顔からは笑顔が絶える事がない。
 彼が司馬に対する自分の想いを自覚したのは、あのとんでもない合宿の最中だった。悩んだ挙げ句に勢いのままに告白し、戸惑う司馬を頷かせたのはほんの半月ほど前の事。
 兎丸が幸せ一杯夢いっぱいなのも、無理からぬ話ではある。
「あと少し!あと一回召還魔法使えば、絶対勝てるよー!」
 はしゃぐ声に、司馬は本を閉じて横からゲーム画面を覗き込んだ。何がどうなっているのかはよくわからないが、兎丸が喜んでいるのを見るのは嬉しい。
「やったー!勝ったー!ついに倒したもんねっ」
 見て見てシバくん、と振り向いた途端、目の前に司馬の顔。画面を覗き込んでいた彼が、穏やかに微笑みを寄越す。

 良かったね

 言葉はなくとも、兎丸にはそういう意味だとすぐにわかる。
「うんっ、ありがと、シバくん!」
 アドバンスを放り出し、喜びついでに目の前の司馬にしっかりと抱きついた。腕の中の身体はほんの一瞬戸惑うように固くなったが、やがておずおずと兎丸の頭を撫でてくる。
 ためらいがちの、けれど愛しげな仕草。

 ――シッ、シバくん!

 可愛い!可愛すぎ!
 一気に頭に血が昇り、兎丸は抱き締めた腕に力を込める。背ばかり高くて幅の薄い身体が、息苦しげにしなった。
 こうして座っていてもふたりの身長差は歴然で、兎丸の顔は司馬の首筋から胸のあたりに埋まってしまう。
 体温の低いその身体に頬を擦り付けて、彼は大きくひとつ息を吸った。
 練習後の、かすかに汗の匂いの残る身体。
 けれどそれは決して不快なものではなく、どこか草原を思わせる司馬の匂いを強調しているだけだ。
 草原を渡る風のような、まっすぐに伸びる若木のようなすっきりとした司馬の匂いが、兎丸の鼻を心地よくくすぐった。
 背中に回した腕をそっと動かしながら、顔を埋めていた首筋にキスを落とす。
 その感触に司馬がギクリと身体を強張らせるのにはお構いなしに、兎丸は首筋へのキスを繰り返した。本当は唇にしたいけれど、座っていてすら、伸び上がっても顎にしか届かない。司馬の協力がなければ、キスさえできはしないのだ。
 兎丸の後ろでは、放り出されたアドバンスからエンディングの曲が流れている。きっと画面の中では感動的なシーンが繰り広げられているのだろう。主人公は悪を倒し、世界を救い、更には愛まで手に入れてるはず。だが、苦労してクリアしたゲームのエンディングよりも、今の兎丸には目の前にいる司馬の方が重要だった。

 ――今日は逃がさないもんね

 付き合い始めて約半月。
 その間、司馬にキスできた事なんて片手で数えても指が余る程度。
 正直に言えばたったの三回だ。
 その先なんて、兎丸の想像の中でしか進んだ事はない。
 恥ずかしがり屋の司馬を、なだめてすかして泣き落とし、最後のとどめに不意打ちして、やっとの事で唇へのキスにたどり着く。今どき、どんな奥手な女の子だってこんな風じゃないと思い、兎丸は胸の内で溜息をついた。
「……シバ、くん……」
 掠れた囁きを唇から零し、シャツの襟をかき分けるようにして、鎖骨の少し上、皮膚の薄い柔らかな場所へ接吻ける。逃がさないようにしっかりと押さえ付けた身体が、腕の中でガチガチに固くなるのがわかり、兎丸は唇だけで小さく笑った。

 ――あ……すっごくドキドキしてる

 ぴったりとくっ付いた身体が、先程までの比じゃない程にドキドキと心臓を高鳴らせている。兎丸自身も、今までにないくらい鼓動は早くなっていた。
 この季節になってもまだ身に着けている、薄手のベスト。
 肌触りの良いそれの上、背中から腰へと手を滑らせて、骨張った大きな身体の感触を確かめる。背骨のひとつひとつを指でたどり直接触れたい衝動にかられ、兎丸はゴクリと唾を飲み込んだ。

 ――逃がさない、もんね

 強張った身体でされるがままになっている司馬の鎖骨を甘噛みしてみると、彼はビクリと身じろいだ。快、不快以前にひどく驚いたのであろうその反応に、兎丸は妙に煽られてしまう。シャツからかすかに覗いているその鎖骨に今度は接吻け、強く吸い上げて小さな跡を残した。
「……っ」
 肌に走った痛みにか、司馬が息を飲む。それを頭上に聞き、兎丸はベストとシャツの裾をかいくぐり、そろりと手を忍び込ませた。
 指先が素肌に触れた瞬間。

「えっ」

 司馬が無言で兎丸の身体を引き剥がす。ベリっと音がしそうな勢いで、両肩をつかんで腕の長さだけ身を離された。さすがにこういう抵抗のされ方は初めてだ。
「シバく〜ん」
 情けない顔で司馬の顔を見つめれば、首まで赤く染めた彼が首を振っている。うつむいたままでフルフルと首を振る彼の顔は、サングラスも手伝って全く表情を読む事ができないが、きっと泣きそうになっているに違いない。
 泣きたいのはこっちだよ、と思いつつ。
 兎丸は、肩をつかむ司馬の手を包み込む。
「ねえ、シバくん……まさかと思うけど、もしかしてさあ、ぼくの事……ほんとは好きじゃないの?」
 その問いに司馬は慌てて顔を上げ、激しく首を振って否定する。
 青く染めた髪が音を立てて揺れるのを眺め、兎丸はことさらに悲しげな声を出してみせた。
「じゃ、ぼくとキスするのが嫌なんだ?」
 今度の問いには少し考えるような間があった。それから、ゆっくりと首を振って否定する。困惑したように眉を寄せ、兎丸の顔を見つめながら。

 ――よし!

 いける。
 兎丸の赤茶色の瞳がギラリと光る。自分のペースにさえ持ち込めば、これはいけるという確信があった。
 何しろ、司馬は兎丸のワガママやおねだりに弱い。
 それは今までの経験で実証済みだ。
 きっと司馬は、耳から頬から首筋から……ひょっとしたらシャツに隠れた肌までも真っ赤に染めて、困りきった顔で兎丸のワガママを受け入れるだろう。
 兎丸はそこまで考え、己に気合いを入れ直した。
「じゃあ……キスさせて?」
 ね?と無邪気を装い微笑みかけて、包み込んだ司馬の両手をさりげなく撫でる。骨組みのしっかりとした、大きな手。さらりと乾いたそれは、いつだってひどく心地よい。
 相変わらず赤い顔のままの司馬に返答する隙を与えずに、兎丸は膝立ちになってサングラスをかけたままの顔に近付いた。ためらいがちに顔を傾ける司馬に胸の中で狂喜して、そっと頬を擦り寄せる。サングラスが少しだけ顔に当たって痛かったが、これを取ったら司馬はますます腰が引けてしまうだろう。そのままゆっくりと、唇を重ねた。

 ――こっからだよ、問題は

 ここまでならば、なんとかなる。問題は、ここから先。
 小さなキスを繰り返しながら、指先で司馬の身体の線をなぞる。明らかな意図をもって触れてくる指に、司馬は再び大きく身をよじった。
 抵抗しちゃダメ、と言わんばかりに唇を深く重ね合わせ、兎丸は先程たくし上げたシャツの裾から指先を潜り込ませた。
 途端、司馬が兎丸の身体をがっしりとつかむ。力では司馬に遠く及ばぬ彼は、されるがままにその身を遠ざけられて呆然とするばかりだ。
 先程と同じように、司馬は顔を真っ赤に染めたまま、必死に首を振っている。

 ――なっ、何なの!

 頭の片隅で、こんな顔したシバくんも可愛いなあなんて思いながらも、いささか憤慨して兎丸はじっと司馬の顔を睨み付ける。蛇の生殺しも、程々にして欲しいものだ。
 兎丸比乃。見た目はいくら可愛らしく子供っぽくとも、先日十六才になったばかりの健康な男子高校生だ。
 おあずけばかりを喰らっていては、自分が可哀想すぎると兎丸は思う。
「ちょっと、シバくん……」
 自分でも情けなく、泣きそうにさえ聞こえる声で大好きなその名を呼ぶ。
 シャツの襟元を押さえ、相変わらずフルフルと首を振り続ける姿は、兎丸の気持ちを煽りたいだけ煽ってくれる。それでも、司馬相手に無体な事はできず。彼は泣き出しそうな気持ちで目の前の整った顔を見つめた。
「どうして?」
 問われ、首筋まで染めた赤い顔が、困惑したように眉尻を下げた。
 何事か言いたいように唇を開き、また閉じ、を数度繰り返す。
 焦れた兎丸が口を開こうとしたその時。
 小さな小さな、泣き出す一歩手前のような声が彼の耳にするりと忍び込んだ。

「……え?」

 滅多に聞けない司馬の声に、兎丸は間の抜けた返答しかできない。言われた言葉を頭の中でもう一度組み立て直し、ためらいがちに司馬に問いかける。
「恥ずかしいから……?」
 兎丸の問いに、司馬はコクリと頷いた。
「恥ずかしいから、まだぼくとそういう事するのは、嫌なの?」
 一言一言、区切るようにそう尋ねると、司馬はますます顔を赤くして頷く。青い髪がさらりと揺れて、朱に染まった耳がのぞいた。うつむきがちのその顔を眺め、兎丸は今日何度目かの溜息をついた。

 ――あーあ

 今さらながらに思い知る。
 司馬が兎丸のおねだりやワガママに弱いのは本当だが、それと同じくらいに、兎丸だって司馬の困り顔や、滅多に言わないお願いには逆らえない。

 ――ゲームとかしてる場合じゃないや

 最強の、難攻不落のラスボスは、目の前で困った顔で小首を傾げているこの同級生だ。どうにかして攻略しなければと思い、兎丸は小さく舌打ちをした。どうでもいい相手ならばどこまでも残酷になれるけれど、誰より大事な司馬相手には、無理強いなどできるはずもない。

 ――ちぇっ

 降参だ、完敗だと心の中で呟いて、兎丸は司馬のサングラスをそっと外した。あらわになる素顔に、司馬が狼狽したように兎丸の手を止める。

 ――今日のところは、これで引き下がってあげる

 口には出さずにそう宣言し、彼は司馬の唇に掠めるようなキスを落とした。
 まだまだ先が長い事は承知の上。
 それでも、ほんの少しは前進したという確信があるから。
「ぼく、必ずクリアするからね。シバくん」
 少し低めの声を出してそう告げると、意味がわからないように司馬は再び小首を傾げた。
 窓から差し込む陽射しは西に傾き、初夏の長い日も暮れようとしている。
 片頬に当たる西日が、痛いほどに熱い。
 柔らかに笑む司馬に邪気のない満面の微笑みを返し、兎丸は自信たっぷりに囁いた。
「見てて、シバくん。ぼく、必ずクリアしてみせるから」
 何を、とだけは未だ告げずに。






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