両の瞳を閉じてはならぬ



 休み時間の廊下は、ざわざわと騒がしい。大勢の生徒達が我先にと、次の授業教室へ急いでいるからだ。常に一緒の三人組も、走り出さないように早足で歩きながら、次の薬草学の授業について話していた。
「ねえ、マンドレイクの泣き声を聞いたら、本当に死んじゃうと思うかい?」
 そばかすの浮いた鼻の頭を擦りながら、ロンが他のふたりにそう尋ねる。にんじんのように赤い髪の毛は、急いで歩いているせいか四方八方に跳ねたままだ。
「え、だってスプラウト先生がそう言ってたじゃないか」
というよりね、ロン。ちゃんと新聞を読んだらどうなの?あなた、小さい頃からずっと魔法界で育ってるんでしょう?毎年二〜三人はマンドレイクの事故で入院してる事を知らないはずないわよね」
 話にならないと言いたげにロンを上から下まで眺めまわし、ハーマイオニーが溜息をついた。一日に一度は見せる呆れ顔だ。
 何だい、知ったかぶりめ。そう言いたいのをグっとこらえてロンが唇を尖らせると、廊下の向こう側から嫌な笑い声が聞こえてきた。顔を合わせたくないからこそどうしてもかち合ってしまう、グリフィンドールの天敵スリザリン生達だ。聞きたくもない大騒ぎに顔をしかめながら、三人はさっさとその場を立ち去ろうと、今にも走り出しそうになっていた。
「おーや、ポッター。随分とお急ぎの御様子だねぇ」
 いつもの嫌味たっぷりな声が、その群れの中から進み出る。嫌々ながら三人がそちらに顔を向けると、ドラコが薄い青色の瞳に意地の悪い光をきらめかせながら、鼻先で笑っていた。
「出た……」
 心底嫌そうな顔でロンが呟くと、その溜息を聞き咎めたのか、ドラコの眼がしっかりとロンの顔を捕らえる。
「ああ、ウィーズリーが向こうでコインの落ちる音でも聞き付けたのかい?貧乏人は大変だなあ、小銭にまで執着しなけりゃならなくて」
「黙れよ、マルフォイ」
 ハリーの緑の瞳が、強い光をたたえてきつくドラコを睨みすえた。友達の悪口は我慢ならない、とその小柄な全身が訴えている。ドラコの背後で大笑いしていたスリザリン生達も、ハリーから漂う剣呑な空気に次第に笑い声を小さくしていった。
「黙れだと?この僕に黙れと言ったのか?」
「ああ、言ったさ。その小うるさい口をたまには閉じておけ」
 その言葉に普段から青白い顔を更に青ざめさせたドラコは、小さく唇を噛み締めた。クラップとゴイルも顔色を変え、今にもハリーに掴みかからんばかりだ。
「……目立ちたがりのハリー・ポッター。せいぜい気を付けるがいいさ、お前のみすぼらしいお仲間が『スリザリンの継承者』に襲われないようにな」
 つい数日前、石になったミセス・ノリスが発見されたばかりで、校内は得体の知れない不安感に包まれていた。犯人の正体は未だ見当もつかず、ただほんの一部で『スリザリンの継承者』は実はハリーではないかと、まことしやかに囁かれているだけだ。ドラコはそうは思っていないようだったが。
「真っ先にその『穢れた血』が狙われるのは、まあ確実だろうがね」
 せせら笑いながらハーマイオニーの方へと顎をしゃくり、ドラコはまた後ろのスリザリン生達を振り返る。その背中に今にも飛びかかりそうになったハリーとロンを、教科書を抱えたままの彼女が手で制した。
「やめて、ふたり共!」
「黙ってられるか!あの野郎、また君の事を侮辱しやがって……」
「いいから、ロン。わたしに任せて」
 片手で自分の髪を払いのけ、ハーマイオニーは堂々とそう宣言する。仲間達と一緒に大声で笑っているドラコを見やって片眉を上げると、馬鹿みたいと言いたげな顔付きで口を開いた。
「『穢れた血』って言うけれど」
 澄んだ高い声に、ドラコがまだ笑ったままの顔で振り返る。
「その『穢れた血』に成績で勝てた試しのないあなたは、それじゃ何なのかしら?ねえ、マルフォイ?せいぜい『澱んだ血』か『爛れた血』ってところかしらね」
 青白い顔をさっと紅潮させ、少年はハーマイオニーを睨み付けた。
「な、何だと!おまえなんか、先生方にひいきされてるだけの癖に!」
「小学生だって、今どきそんな言い訳しないわ。あなたがわたしより頭が悪いだけの話よ」
 そう彼女は鼻先で笑うと、
「さ、ハリー、ロン、行きましょう。こんな下らない連中に構っているせいで授業に遅れたくないわ」
くるりときびすを返し、廊下を颯爽と歩き始めた。少年ふたりは慌ててその後を追う。
「すっげぇ、ハーマイオニー!見たかよ、あのマルフォイの顔!」
「さすがだね」
「ありがと。マルフォイっていつも頭の悪い犬みたいにキャンキャン吠えて、うるさいったらありゃしないわね。……嫌だ、もう授業始まっちゃってる!」
 マンドレイクの実習は、最初の説明を聞き逃したらもうお手上げだ。三人は大慌てで廊下をバタバタと走り始めた。途中で壁の肖像画に『ほこりを立てないで!』と怒鳴られながら。





 秘密の部屋についてたったひとりで調べ始めていたハーマイオニーは、今日も授業が終わってからは図書館で本に埋もれていた。かび臭い古い本をパタンと閉じて、彼女はひとつ大きな溜息をつく。
「ダメ、これにも載ってない……」
 探している情報は、あいにくとどの文献にも載っていなかった。

 ――秘密の部屋……スリザリンの継承者……そして継承者の敵

 おかしな符号だわ、と頬杖をつきながら呟くと、そのまま小さく首を振った。石にされたミセス・ノリス。いったいそれはどういう事なのだろう?何がこの学校で起こっているのだろうと考えて、ハーマイオニーは寒さのせいでなく身震いをした。知りたいけれど、知ったらただでは済まないような嫌な予感が頭をよぎる。
「……もうこんな時間」
 あんな恐ろしい事件があった後で、日暮れ後に外をうろつくのはあまり賢明とは言い難い。早く寮に帰って暖かいココアでも飲もうと、彼女は大急ぎで図書館から飛び出した。

 ――まだふたりは談話室に居るかしら?ロンに何か甘いお菓子をもらおうっと……

 小走りにグリフィンドール塔を目指しながら、蛙チョコよりもふっくらチョコレートがいいなぁと考えているところで、下卑た笑い声がふたつ、廊下に響き渡ったのに気が付いた。彼女が気付いたのと同時に、向こうも彼女に気付いたようだ。先頭に立っていたドラコの両目がスッと細められる。
「継承者の獲物が、こんな時間に一人歩きか?さっさと荷物をまとめてマグルの親のところへ帰ったらどうなんだ?」
 その言葉に、カバのような大口を開けてクラップとゴイルが大笑いする。

 ――やだ、気持ち悪い……あの鼻の穴

 醜いふたりの馬鹿面を視界に入れないように努力しながら、ハーマイオニーはドラコの顔をぐっと見据えた。薄い白金の髪を小生意気に後ろに撫で付けたその顔は、彼女を傷つけようという意気込みに歪んでいる。その身から立ち上る憎悪と敵意がどす黒く揺らめいているのが、目に見えるようだった。
「……あいにくとわたしは深窓の令嬢じゃないから、一人歩きもするの。あなたこそ、ひとりじゃ学校内も歩けないのかしら?それとも、お供が一緒でなきゃ出歩いちゃいけないって、お父様のお言い付け?」
「ぼ…」
「『僕の事を馬鹿にすると、父上が黙っていないからな!』」
 口を開きかけたドラコの言葉を先取りし、ハーマイオニーがいつもの彼そっくりな意地の悪い口調でそう言い放った。
「あら、大当たり?本当にあなたっていつも同じような事ばかり言うから、つまらないわ。もう少し頭を働かせたらいかが?お姫様」
「な…誰が『お姫様』だ、馬鹿にするな!」
「いつもお供を引き連れてるから、ちょうどいいじゃない?ひとりじゃ何もできないんでしょう?」
 ちらりと視線を後ろのふたりに走らせた彼女に、ドラコが小さく唇を噛む。反論したくともできないのだろうその顔は、怒りと屈辱に震えていた。
 いい気味、と心の中で考えてハーマイオニーは唇の端だけで笑った。
「お前たち、向こうに行っていろ」
 でも、と反論しかけたクラップとゴイルを、ドラコがヒステリックに怒鳴り付ける。
「いいから、さっさと向こうに行け!」
 渋々といった様子で廊下を去って行ったふたりを見送り、彼はその燃えるような眼差しをハーマイオニーに向けた。さあどうだ、と言わんばかりだ。

 ――本当に、小さな子供みたいだわ

 呆れたような気持ちが半分、哀れむような気持ちが半分で彼女は腰に片手を当てる。いい加減、馬鹿の相手はうんざりだという態度だ。
「いい機会だから言っておくけれど、マルフォイ。わたしはハリーやロンみたいに優しくはないのよ」
「ああ、ポッターはお優しい事だろうさ。お前みたいな『穢れた血』を取り巻きにしてるんだからな」
 薄暗い廊下には、他に人影はない。ただ、ふたりの囁くようなやり取りだけがかすかに天井をくすぐっている。壁に掛けられた風景画の中から、小さな人影が興味津々でふたりの様子を伺っていた。
「……あなた、本当に悔しくて仕方ないのね」
「何の話だ」
「ハリーの友達が、自分じゃないって事がよ」
 放り投げるように告げられた言葉に、ドラコの顔がほんの少し歪んだ。

 ――そうよ、わたしは優しくなんてないの。わたし達を傷つけたいのなら、あなたも存分に傷つけばいいんだわ

 目には目を、という有名な言葉が彼女の頭をよぎる。
「何を馬鹿な事を……この僕がポッターなんかと友達に?ハッ、全くお笑いぐさだな」
 慌てて言い返す言葉が、どこか力無い。認めたくない図星を指された痛みに、彼の声はかすかながらも震えていた。
「目立ちたがりの偽善者様に、僕がお情けをかけてもらいたがるとでも言いたいのか?見当違いもいいところだ、さすがに『穢れた血』は考える事が違うな!馬鹿馬鹿しい!」
「……本当に、お馬鹿さんね。あなたはやり方を間違えたのよ、そもそもの始めから」
 ハーマイオニーの声が、いっそ優しいほどの響きでドラコの耳に忍び込む。揺らめく明かりが、ふたりの顔をゆらりと照らし出した。
 ひとりは、どこか優しげでさえある残酷な笑みで。
 もうひとりは、取り残された子供のように心もとない顔だ。
「可哀想に」

 ――ハリーがあなたの友達になる事なんて……決してないわ

「……っ」
 何かを言いかけたドラコの唇が凍り付く。ハーマイオニーの背後から、ふたつの足音が響いて来たせいだ。
「……二度と、あんな馬鹿な事を言うな」
 呟くような言葉は、辛うじて彼女の耳に届いた。きびすを返すドラコの目元はうっすらと朱に染まり、泣き出す寸前のように見えた。
 そのまま駆け出す背中を見送り、彼女は溜息をつく。
「ハーマイオニー!大丈夫?帰って来るのが遅いから、心配になって迎えに来たんだ」
「ありがとう、ハリー」
「今のって、マルフォイ?また何か言われたわけ、君」
 心配そうなロンにハーマイオニーはただ微笑する。
「……いいえ、何も。心配いらないわ」
 もうそこにいない、去って行った後ろ姿を思い出して彼女はうっすらと笑った。哀れみと嘲りの入り混じったそれは、廊下の明かりにも照らされず、ただゆるやかに闇の中に溶け出して行く。

 ――本当に、可哀想な人。素直になれば全てが変わるのにね……

 自分の手でつけた傷を撫でるように、ハーマイオニーは心の中でそっと呟く。傷ついたようなドラコの瞳を思い出し、彼女はまた笑みを深くした。
 存分に傷つきなさい、と唇の形だけで暗闇に向かって囁いて。






SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送