愚か者の知恵、賢人の愚行




 地下牢教室はいつでも静かで、ほんの少し薄暗い。今現在そこの主人である魔法薬学教師の人柄を映したように、どこか陰鬱な気配を漂わせている。教室へと降りる階段あたりから漂い始めるかすかな薬の匂いは、ひんやりと鼻を掠めていく。どんな悪戯好きの生徒でも授業以外、めったな事では足を踏み入れない、この教室はそんな場所だった。
 どこから水が染み出したのかじめりと濡れた階段を、ことさら注意深く降りる足音がひとつ。気を抜いたらば足を滑らせて、まっ逆さまに階段から落ちるであろう、そんな響きだ。
「……ふう」
 やっとの事で全ての階段を降り切ったルーピンはやれやれと溜息をつき、教室の扉へ一歩踏み出した……途端、ズルリと足を滑らせる。
「うわっ」
 見事なまでに派手な転び方をした彼の腕から、紙袋が弾け飛ぶ。音を立ててまき散らされたその中身は、色とりどりの山程のお菓子。
「ああぁ、お菓子が……」
 情けない声を出して、彼は打った腰の痛みも構わず、床に散らばった菓子の無事を確認した。少し形がひしゃげたもの、袋が汚れてしまったもの、パチンパチンと勝手に弾け出したお菓子などはあったけれど、どれも大した問題はないようだ。ホウッと溜息をつき、彼は大切そうにお菓子を拾い集め始めた。
 百味ビーンズ、ふっくらチョコレート、パチパチチップス、砂糖羽ペン、季節限定ハニーハニーベリーパイ、火とかげココアの粉末……。
 にこにこと笑いながら紙袋にしまいこんでいると、扉の内側で神経質な足音が響き渡る。顔を上げるよりも早く、扉が盛大に開け放たれた。
「騒がしい!」
 鬼のような形相で仁王立ちしているのは、間違いようもなくセブルス・スネイプその人だ。どこの寮の生徒だ、減点してやるという意気込みに満ちていた表情が、石畳に座り込んだルーピンを見て、ますます凶悪に歪んだ。
「……ここで何をしている、ルーピン」
「この階段、危ないねえ。生徒は転んだりしないかい?」
「授業前には転倒防止の魔法をかけている……そうでなく、君は一体この地下牢教室に何をしに来たのかと、それを伺っているのだが」
「え?だってセブルス、今の時間は空き時間でしょう?」
 にこり、と笑いかけてルーピンは紙袋を軽く叩いた。
「一緒にお茶でも飲もうと思って」
「……何故、我輩が君とお茶の時間を共有せねばならんのか、そこのところをお聞かせ願えるかね?」
 少し疲れたような声が、もはや嫌味を言う気力もないと言わんばかりに、薄い唇からこぼれ落ちる。スネイプは騒々しいのが大嫌いだというのに、床では未だにルーピンのぶちまけたパチパチチップスが音を立てて弾け飛んでいた。
「何を言っているんだい、セブルス。同級生で職場の仲間なのに、お茶を飲む事にすら理由がいるの?ほら、お菓子はたくさん買って来たよ。」
 ほらほら、とスネイプに腕の中の紙袋を見せつける。どれもこれも、ルーピンがじっくり選び抜いたお菓子だ。甘く柔らかく良い匂いのするそのお菓子を眺め……スネイプは薄い唇を皮肉に歪めた。
「相も変わらず、君の身体は甘ったるい菓子の山で作られているというわけか。……こんなどうでもよい時にはノコノコと自分から現れるくせに、薬は私に持って来させるとは、まったくもっていい御身分だな、ルーピン先生?」
 ほんの半月程前の満月に、薬を飲み忘れかけた事をまだ根に持っているらしい。スネイプの口調はねちねちと絡み付くようだ。自分を眺めまわす冷たい視線にちらりと笑って、ルーピンは穏やかに言い返した。
「だって……君は、そんな用事でもないとわたしに会いに来てくれないだろう?」
「不可解な事を言う。顔ならば毎日合わせているだろうに」
 我輩としては不本意極まりないのだが、という表情を隠しもせずにスネイプは言う。

 ――それは、仕事の席での話じゃないか。

 本当に、全然わかっていない!と叫び出したいような気持ちを抑え込み、ルーピンはにっこりと笑う。想う事を悟らせたいのか悟られたくないのか。
 答えはシンプルなはずなのに、どうしてかいつも複雑だ。
「中に入れ。その濡れたローブをどうにかせんと、いくらなんでも生徒に示しがつかぬ。地下牢教室で滑って転んで大怪我をしたなどと噂が立っても、我輩が迷惑をこうむるばかりだ」
 顎をしゃくってきびすを返したスネイプに続き、ルーピンも中に足を踏み入れる。机が並び、大鍋の置かれた教室の様子は、自分がホグワーツの生徒だった頃のままだ。
「うわあ、変わってないねえ……この教室」
「当然だ。浮ついたそこらの学問と違い、魔法薬学は厳粛にして緻密な学問であるからして……」
「ねえ、君は覚えているかなあ?三年生の時だったけど、君とわたしとで組んで実験した事があったよね」
 スネイプの演説はまったく無視され、ルーピンが呑気な声で楽しげに思い出を語り始めてしまう。
「我輩にはルーピン、君との思い出に浸る趣味はない」
「うわ、冷たい物言い……。あれが君とふたりで話した初めての機会だったんだけど。わたしがまともに魔法薬を作れたのって、君と組んだ時だけだったんだよね。ああ、そう、この机だよ!」
「……あの時、我輩は手順を見ていろと言ったはずだ。人の話を聞いておらぬから、いつまでも実験に失敗していたのだ、馬鹿者が」
「覚えてるの?」
「その薄ぼんやりした頭が覚えているくらいの事を、我輩が覚えていないとでも思うのかね?」
 ふん、と鼻先でせせら笑いながらスネイプは広い教室を足早に通り過ぎて行く。ルーピンが懐かしげにその机を撫でている様子など、目にも入らないようだ。教室の更に奥、自分の研究室へとつながる扉を開き、彼は後も見ずに中へと入って行った。
「相変わらず、早足だよねえ……」
 振り向きもしないその後ろ姿にひとつ溜息をつき、ルーピンはゆっくりとその後を追い掛けた。



 壁に作り付けられた大きな棚には、色とりどりの瓶や得体の知れない物体がところ狭しとひしめいていた。学生時代もチンプンカンプンだった魔法薬学は、成長した今でさえルーピンにとっては鬼門の学問だ。
「これは何?」
「新月生まれの処女に摘み取らせた毒猫草を煎じたものに、ヤモリの心臓を漬込んである。約半年寝かせてから十二回濾すと、強力な毒薬ができあがるのだ」
「うわあ、すごいねえ」
 その感嘆の声を聞き流し、スネイプはルーピンに向って杖を振った。途端に、濡れて重くなったローブがふわりと暖かくなる。ローブから吸い取られた水分は、ゼリーのような形でふわふわと宙をさまよい、そのまま小さな流し台で弾けて消えた。
「どうもありがとう、セブルス」
「礼には及ばん。部屋を汚されたくないだけだ。……かけたまえ、ルーピン」
「あっ、紅茶にはミルクも添えて欲しいなあ」
「誰が貴様の為に茶などいれると言ったのだ。下らぬ事を言っていないで、さっさと手を出したまえ」
「え?」
「……君のその耳はただの飾りかね?それとも、振れば音のするようなその脳みそは、我輩の言葉を理解する事ができぬのか?同じ事を何度も言わせるなどという愚かしい真似、貴様が我輩の生徒ならば思う存分グリフィンドールから減点してやるところだ、リーマス・J・ルーピン。我輩は二度も同じ言葉をくり返して、時間を無駄にするような真似は好まぬのだがね。次からはそれを覚えて頂きたいものだ。……早く手を出したまえ」
 みすぼらしいローブからそろそろと両手を出すと、スネイプは気味の悪い赤紫色の薬品を取り出してじろりとルーピンを睨み付けた。
「まったく、消毒もせずにこのままにしておく気だったのか?呆れて物も言えん」
 先程転んだ時に床についた手が、擦り傷を作って汚れたままだ。その手をとり、彼は神経質な仕草で薬を塗り付けていく。
「いたた、痛いよセブルス」
「痛いに決まっているだろう、怪我をしているのだから。そんな単純な事もわからぬほど、この頭は虫食いだらけなのかね?嘆かわしいものだ」
「なんか酷い事言われてるような気がするけど……まあ、いいや。どうもありがとう」
 薬で消毒され清潔な布で綺麗に傷を覆われて、ルーピンはにっこりと礼を言う。目の前にあるしかめっ面を眺めているのが、楽しくて仕方ないという表情だ。その笑顔を見てしまったスネイプの方は、嫌なものを見たと言わんばかりに、ますます険悪な顔になった。
「……何をニヤニヤしているのだ」
「これはニヤニヤじゃなくて、微笑んでるっていうんだよ」
 そんな言葉のやりとりひとつひとつが楽しくて、彼の笑みは濃くなった。
「屁理屈をこねるな、鬱陶しい」
 小さな声で悪態をつきながら、スネイプの手がよどみなく茶器を揃えて湯を沸かす。ルーピンならば杖の一振りで沸かしてしまうやかんの湯も、彼は火にかけて沸騰させる方法を好んだ。

 ――杖を振り回すのはバカげた魔法。授業でそう言ったらしいしね。まったくセブルスらしい……

「あれっ?お茶を飲ませてくれるの?嬉しいなぁ」
「勘違いしないで頂こう。我輩もたまたま茶にしようと思っていただけの事」
 意地の悪そうなかぎ鼻の上からじろりとルーピンを見下ろす両目を見返し、彼は再びにっこりと笑う。笑顔を向けられるとスネイプが困惑するのは、当然のように先刻承知だ。
 案の定、スネイプはその笑顔から目をそらし、茶葉の開き具合を確かめるふりでティーポットに手をやった。
「それにしても、セブルスが魔法薬学の先生になってたなんてね。なんだかあんまり似合い過ぎて、おかしいくらいだよ」
「……貴様の教師姿は、呆れるほど似合わんな」
「酷いなぁ、これでも生徒には結構人気らしいのに」
「下らぬ」
 ルーピンのささやかな主張を、歪めた唇でたった一言の元に切り捨てた彼は、温かな湯気を立てるお茶をゆっくりとカップに注ぐ。ふたりの間に柔らかく上品な紅茶の香りが広がった。
 ミルクは、と言いたげに自分を見上げるルーピンの視線をあっさりと無視し、スネイプは椅子を引いて腰を降ろした。そこまで面倒を見てやるいわれはないと言わんばかりの態度だ。その横顔を眺めながら、穏やかな顔をした人狼は何気ないように口を開いた。
「ほんとは『闇の魔法に対する防衛術』の先生になりたいんだって?」
「……馬鹿馬鹿しい。魔法薬学以上に、我輩が愛する学問などあるとでも思うのかね?」
「でも、そう噂になっているみたいだよ。スネイプ先生は、闇の魔法に対する防衛術に御執心だって」
「闇の魔法の何たるかもわかっておらぬ輩が教鞭をふるっているのを、見るに耐えぬだけだ」
 決して視線を合わせぬままに、スネイプはティーカップを唇に運ぶ。あまり形の良くない、血の気のない薄い唇を眺め、ルーピンはひとつ息をついた。
「闇の魔法の何たるかねぇ……」
「貴様こそ、一体いつから闇の魔法に詳しくなった。学生時代など、苦手分野であっただろうに」
「案外、わたしの事も見ててくれたんだね。そう、学生時代は苦手だったよ。……今だって、別に得意じゃない」
 闇の魔法も、それに対する防衛術も。決して、好きではない。
 そう心の中でぼんやりと思い、彼は白髪混じりの髪に指を通した。
「必要だから、学んだだけだよ。……わかってるだろう?セブルスだって」
 それに返る答えはない。
「あの時から、わたしには学ぶ必要ができたんだ。彼が……ジェーム」
「言うな!」
 続けようとした名は、スネイプの叫びに遮られて消えた。ルーピンを見据える彼の両目は黒々とした炎を宿し、それ以上の言葉を拒んでいた。
「……その名を、口にするな」
「そう、だね」
 ジェームズ・ポッター。
 そして、シリウス・ブラック。
 ルーピンが着任して以来、互いの前では絶対に口にしなかった、そのふたつの名前。他の人間の口から聞く事には耐えられても、お互いの口から聞くのは耐えられぬであろうと、ふたりとも分かっていたからだ。
 名を口にしてしまえば、語らねばならぬ事がある。聞かねばならぬ事もある。ただその事実から、今しばらくは目を反らしていたかったと思い、ルーピンは小さな溜息をついた。

 ――まったく、わたしは要領が悪い

 冷えてしまった紅茶を手の中にくるみ、彼は学生時代へと思いを馳せた。
 同じ黒髪、良く似た背格好。まるで双子のようだと称された、彼の親友達。そのふたりの仲間であると認められるのが、どれほど誇らしかったか知れない。
 全てが壊れてしまったのは何故なのか、この十数年、何度考えた事だろう。

 ――結論なんて、出るはずもないけどね

 物思いの淵に深く沈み込んでいたルーピンの耳を、静かな声が掠める。
「……何故、今頃になってここへ戻って来たのだ、ルーピン」
「無職のわたしに、校長が仕事を下さったからだよ」
「それだけか」
「それだけさ」
 何しろ、人狼を雇ってくれるような職場はなかなか無いからね。
 おおらかな笑顔でそう返すルーピンの顔を、黒い瞳がじっと見つめている。不信と不安、その両方を隠し切れぬままに。そしてその奥で、こらえ切れぬように憎悪が燻っている。
 ルーピンに対してではない。今はこの場にいない、シリウス・ブラックへの憎しみ。ジェームズを裏切り、その命を奪い去った男への、消える事のない憎しみの炎だ。

 ――ああ、今もまだ

 ルーピンは胸を切り裂くようなその痛みに、そっと目を閉じた。わかっていた事だというのに、目の前にそれが晒されれば、まだ子供だったあの日々と同じように胸を痛ませずにはいられない。

 ――今も君はたったひとり、彼だけを心に住まわせているんだね

 その痛みは、スネイプの心を思いやっての痛みなのか、或いは己を哀れんでの痛みか。それすらもわからぬままに、彼は薄く笑みを浮かべた。
「……お茶が冷めたな」
 話に区切りをつけるように、スネイプが小さくそう呟く。決してルーピンを信用していない青白い横顔が、神経質な視線を流すのに再び笑い、彼は腰を上げた。
「もうすぐ次の授業だろう?そろそろお暇するよ。お茶をどうも有難う」
 菓子の入った袋をガサリと持ち上げ、結局は和やかなお茶の時間になどならなかったと苦笑する。ひとつも封を開けられる事なかった菓子を眺め、ルーピンは虚しく首を振った。
 甘い菓子で心が慰められる事もあると、そう言ったならばスネイプは笑うだろうか。甘党の貴様の言いそうな事だと、鼻を鳴らして背を向けるだろうか。自分の考えに笑い、ルーピンは顔を上げた。目の前に、不興げな顔付きの男が突っ立っている。全身を覆う黒い装束は、未だ喪に服す彼の心を映しているのだろうか。

 ――君の心が癒される事はあるの?

 けれどその問いを口に出す事はなく、ルーピンはただ、スネイプを見つめた。

 ――君の心を、癒す事はできないんだろうか

 己を見つめたまま微動だにしない彼をいぶかしむように、スネイプの眉間にしわが寄る。と、その胸元に何かが突き出された。
「……何だ?」
「甘くて美味しいよ。後で食べてごらん」
「我輩は……」
「疲れている時はね、糖分をとった方がいいんだ。……心も、身体も」
 その言葉に絶句した彼に、季節限定ハニーハニーベリーパイを押し付けて、ルーピンはくるりときびすを返した。疲れたような足取りで、のたのたと地下牢教室を後にする。今度こそ滑らないよう足元に注意を払いつつ、階段の前でぼんやりと後ろを振り返る。そこには無論、魔法薬学教師が見送りに出ているはずもなかったが。
「……わたしでは……」

 ――甘いお菓子にすらなれないのかな……

 聞く者もいない溜息が、地下階段を静かに満たしていった。







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