respite




 つぎはぎだらけのローブが、ホグワーツの廊下を踊るように翻っている。のたのたと心もとない足取りで先を急ぐのは、闇の魔法に対する防衛術の新任教師だ。息を切らせて、けれど他人の目からはあまり焦りが感じられない様子の彼は、小走りで自室を目指していた。


 ――ああまったく、わたしって奴はどうしてこうなんだろう!


 白髪混じりの髪を思うさまかきむしりたい衝動と戦いながら、ルーピンは階段を二段抜かしで駆け上がる。踊り場にかけられた肖像画が驚いて文句をつけようとするのを横目に見ながら、くたびれたローブの裾をしっかりとたくしあげた。もう自室は目の前だ。
 身体の中で刻々と変化が始まっているのを感じ、彼は片手で口元を覆う。小さな声で罵り言葉を吐き捨てて、部屋のドアを乱暴に開けた。扉の正面にある窓から差し込む夕陽に目を射抜かれて、ルーピンは絶望的な気持ちで両目を閉じた。


 ――もうダメだ


 閉めた扉に寄り掛かり、もはや溜息にもならない吐息を吐き出すと。
「……で、ルーピン先生は今まで一体どちらにいらしていたのかね?」
 低く冷たい声が、押し殺した怒りの気配と共に部屋のどこからか響いてきた。冷たく、黒く、ぬめりとした何かがとぐろを巻きながらこちらを睨み据えている、といった風情のその声に、ルーピンは顔を跳ね上げる。目をやった先には、自分の机に腰をひっかけて座るスネイプの姿があった。
「セブルス!」
「もはや夕陽も沈もうというこんな時間まで薬も飲まずにフラフラと出歩いているとは、どういうつもりなのかね」
「違うんだよ、セブルス。どうしても授業で必要な……」
言い訳は結構!四の五の言う前に、ここへ来てさっさと薬を飲みたまえ!リーマス・ルーピン!」
 煙を上げるゴブレットを机にたたきつけるようにして示し、スネイプはいらいらと髪をかきあげた。べたつくようにもつれ合った黒髪が指に引っ掛かり、彼を更に苛立たせたようだ。戸口でもたもたしているルーピンを睨みつけると、ぐいと唇を引き結んで再び腕を組んだ。
「どうもありがとう」
 おとなしくそう礼を述べ、ルーピンはゴブレットに手を伸ばす。かすかに煙を上げ続ける薬の苦さに顔をしかめ、彼はゆっくりと一口飲み下した。
 薬を飲み始めた事を確認し、スネイプは窓辺へと近付いてきっちりとカーテンを引く。夕陽の一筋さえも入り込ませないと言うように、それはそれはきっちりと。その痩せこけた横顔が少しばかり安堵しているように見えたのは、おそらくは薬の苦味でルーピンの目がおかしくなっただけの事だろう。
 振り返ったスネイプの顔は、いつも通りの厳しく冷たい顔だった。
「早く飲み干したまえ」
 ちびちびと薬を飲む彼にそう言い放ち、上から下までじろりと眺めまわして意地悪く目を細める。今にもねちねちと嫌味を言い出しそうなその様子に慌て、ルーピンは一息に脱狼薬を飲み干した。うえっという顔を隠しもせずにゴブレットを置き、チョコレートを求めてポケットをあちらこちらと探し回る。
「本当にすまない、セブルス。忘れていた訳じゃないんだ、ただ次の授業で使う魔法生物の事を図書館で調べていたら、いつの間にかこんな時間になってしまって……」
「すっかり薬の事を忘れ果て、呑気に調べものという訳かね。なるほど、なるほど、それはそれは!大事な薬を飲み忘れるのにふさわしい、素晴しい理由である事よ。よりによって今日は満月の晩だというにも関わらず、我らがプロフェッサー・ルーピンは自分が服用せねばならぬ薬よりも、調べものの方をお取りになったという訳か」
「ごめんなさい、わたしが全面的に悪いんだよ、わかっている」
「謝れなどと誰が言った?」
 常に刻まれている眉間のしわを五割り増しにして、スネイプの形相がますます険悪なものになっていく。
「我輩に謝ってどうするつもりかね?問題はそんな事ではなかろうに。君が薬を飲み忘れるという事は、君自身のみならず、我が校の生徒達をも危険にさらすという、その事実を少しは理解して頂けているのかね?我輩が再三再四、しつこい程に薬の服用時間をお教えし、わざわざ煎じた薬をお持ちし、それでもなおかつ薬を飲み忘れそうになるとはどういう事なのか、お教え願えないだろうか?」
 よどみのない口調でつらつらと嫌味を言うスネイプに、けれど言い返す言葉もなく彼はうなだれた。確かに、うっかりと薬を飲み忘れそうになった事は三ヶ月前の着任以来、今回が初めてではない。
「本当にごめん」
「だから、謝って欲しくなど……」
「違うよセブルス。君をそんなに心配させてしまった事を謝っているんだ」
 その言葉に、不意を突かれたようにスネイプが目を見開く。更なる毒を吐こうとしていた唇は、中途半端に開いて固まったままだ。
「どうもありがとう、ぼくの事を心配してくれてたんだよね?」
 学生時代のような口調になり、ルーピンが微笑む。目元のかすかなしわが、混ざり始めた白髪と相まって、卒業以来重ねてきた年月を感じさせた。
「……誰が貴様の心配などするものか。まったく、思い上がりもはなはだしい。これだからグリフィンドール生は嫌なのだ。ごう慢で鼻持ちならなくて……」
 ようやく動くようになった舌を回転させ、慌ててスネイプは嫌味を連ねてみせた。眉間のしわもきっちりと刻み込んだままかつての同級生をじろりと睨み付け、空のゴブレットを取り上げる。窓からはもう夕陽の名残りだけがかすかに射し込み、明かりなしではいささか部屋の中は薄暗くなっていた。杖を取り出し明かりを灯すと、目の前に薄い笑みを浮かべたルーピンが立って、スネイプを見つめていた。
「……何かね」
「ううん、何でもないけど……お礼を、したいなぁってね」
「礼には及ばん。では、我輩はこれで失礼する」
 きびすを返そうとした男の腕をつかみ取り、ルーピンはついと身体を近付ける。穏やかな顔に浮かんだ柔らかな笑みは、どこか不埒な気配を漂わせていた。
「一体何なのだ、ルーピン」
「……何だろうね?」
「我輩とて、いつまでも君に付き合っていられるほど暇ではないのだがね。それとも何かね?君に薬を飲ませただけでなく、狼になってからの世話までさせようと、よもやそう言う訳ではあるまい?」
「セブルス、少し黙って……」
 削げた頬を指先でたどってそう囁くと、ルーピンはゆっくりと顔を近付けていった。
 そして、もうあとほんの少しで唇が触れる、その刹那。
「……!」
 スネイプに触れようとしていた顔が長く伸び、腕をつかんでいた手からは毛が生え鉤爪が伸びた。瞬く間に狼へと変化していく身体に驚いたように、男が少し身を離す。振り返れば、カーテンを閉めた窓の向こうには既に月が昇っているようだった。
 完全な狼体となったルーピンが、困ったようにファサリとしっぽを振って男を見上げる。
「……無論、我輩の作った薬に間違いはないと承知しているが。きちんと効いているかね?脱狼薬は」
 効いていなければ既にその牙で引き裂かれているだろう男が、片眉を上げてそう尋ねる。仕立ての良い黒のローブに頭を擦り付けて返事をし、狼は心の中で小さく舌打ちをした。


 ――全然気付いてないっていうのも、ある意味問題だよ、セブルス


 そんな彼の心の声にも気付くはずのないスネイプは、さて、と扉へ向き直る。
「それでは今度こそ、我輩は失礼する。……部屋の明かりは、消した方がいいかね?」
 コクリと頷いた狼を見て、男は杖を軽く振った。たちまち室内は、窓から忍び込む月明かりだけになる。そのまん中で大きな身体を持て余すように、狼はペタリと丸くなり、小さく鼻を鳴らしてみせた。
「どうせ他にする事もなかろう。明日の朝までその姿でたっぷりと反省しているのだな。……今後、二度と薬を飲み忘れる事のないように」
 例のせせら笑う口調で嫌味たっぷりにそう言いおいて、魔法薬学教師は滑るように部屋を出て行った。その後ろ姿をぼんやりと見送り、人の心を保ったままの狼は姿に似合わぬ溜息をついた。もう少しだけ相手をしてくれてもいいじゃないかと、口がきけたならばそう訴えていただろう。パタンパタンとしっぽを床に打ち付けて、前足の上につまらなさそうに顎を乗せる。
 ほんの三十分前にはこの世の終わりのような顔をしていたというのに、まさに喉元過ぎればなんとやら、という訳だ。
 朝までの眠れぬ長い時間を思い、狼はフン、と不満げな鼻息をもらした。脱狼薬が苦すぎるのが悪い、などと見当違いな物思いに耽りながら。







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